「諸門流の参入 その二」

~毫摂寺善鎮と錦織寺勝慧の参入~

『反古裏書』には蓮如上人の代に本願寺に参入した門流についてのまとまった記述がみられます。『反古裏書』は三門徒の門流について、三門徒の人びとは蓮如上人が吉崎にいる間にあらかた本願寺に参入したと述べています。『反古裏書』には、三門徒のほか、毫摂寺についての記述もみられます。毫摂寺善鎮が本願寺に参入したとするものです。毫摂寺は現在の出雲路派本山毫摂寺につながる寺ですが、この毫摂寺は三門徒とも深い関係があります。

毫摂寺は覚如上人の門弟である乗専によって開かれた寺です。乗専は覚如上人を深く尊敬しており、覚如上人の没後には、覚如上人の遺徳を偲んで覚如上人の伝記『最須敬重絵詞』を著してもいます。毫摂寺の名も覚如上人の号である毫摂から採られたものです。この毫摂寺は、当初、丹波の地に開かれます。乗専は丹波の人です。毫摂寺はその後、京都出雲路に移されます。ここから毫摂寺は出雲路毫摂寺といわれます。

三門徒のうち、もっとも深く毫摂寺と関係していたのは証誠寺です。証誠寺は大町専修寺から分かれた寺ですが、この寺は専修寺から分かれたのち、毫摂寺を自らの寺の本寺に選び、毫摂寺を本寺として仰ぎます。

証誠寺と毫摂寺の関係はこうして始まりますが、その後、両寺の関係はさらに深まります。京都出雲路の毫摂寺が京都からの退却を余儀なくされ、住持一族が京都から越前横越の証誠寺に移り住んできたのです。

越前国横越の証誠寺道性、京都にわが寺の本寺とたのみ申せしまゝ、
善幸(智)の代にいたり出雲路退転の後横越に住し給…
善鎮も若年の時より母子と証誠寺にくだり住持しけり

『反故裏書』には、証誠寺は毫摂寺を本寺として頼んでいたが、毫摂寺は善幸の代にいたって退転してしまい、善幸は京都から横越に移り、善鎮も証誠寺に下ったと述べられています。善鎮は善幸の甥にあたる人物で、証誠寺に下ったあとに証誠寺の住持となります。本願寺に参入するのはこの善鎮です。善鎮の参入は文明十四年(1482)のことといわれます。参入した善鎮に対し、蓮如上人は正闡坊の名を与えます。

善鎮の参入ののち、錦織寺勝慧が本願寺に参入します。勝慧の参入は明応二年(1493)のことです。

錦織寺は現在の木辺派本山の錦織寺のことです。錦織寺は慈空という人により開かれます。慈空は親鸞聖人から、性信、願性、善明、愚咄、慈空とつづく法脈を相承しています。性信は親鸞聖人の高弟です。下総国横曽根にいたことから、この性信にはじまる門徒団を横曽根門徒といっています。錦織寺も横曽根門徒の系統につらなる寺ということになります。

錦織寺開基の慈空は存覚上人と親しく、存覚上人からは教学上の指導もうけています。慈空の法脈の師である愚咄は存覚上人の縁者とみられ、その関係から慈空も存覚上人と親しくなったものと思われます。存覚上人には奈有という妻がありましたが、この奈有は愚咄の娘であったと考えられています。

存覚上人と慈空の関係は相当に深く、慈空が没した際には、慈空の遺族は存覚上人に錦織寺への入寺を要請しています。この申し出に対し、存覚上人は第三男の綱厳を錦織寺に入寺させています。綱厳は錦織寺に入寺後、名を慈観と改めます。ここに錦織寺と本願寺は血縁の上でも結ばれることになります。両寺の関係は親密で、慈観は本願寺第五世の綽如上人に『六要鈔』の伝授を行なってもいます。『六要鈔』は『教行信証』の註釈書で、存覚上人が著したものです。慈観は存覚上人からこの『六要鈔』の伝授をうけていました。

慈観以後、錦織寺は慈達、慈賢と継がれていきますが、『反古裏書』はこの慈賢の代ののち本願寺と錦織寺は疎遠になるのだといっています。そして、そうした状態がつづくなか、錦織寺に勝慧が出て、その勝慧が本願寺に参入したのだと述べられています。

勝慧法師十九歳にして当家へ帰参あり。蓮如上人勝林坊とつけ申させ、則、
御娘妙勝所縁として城州三栖といふ所に寄宿せしめ給ふ

参入した勝慧に対して、蓮如上人は勝林坊の名を与え、娘の妙勝を配して山城国の三栖に住まわせたともいっています。勝慧は三栖の坊でこの妙勝との生活をはじめますが、妙勝は七年後、二十四歳で亡くなります。妻の没後、勝慧は大和国吉野郡下市に移ります。ここで勝慧は妙勝の妹、妙祐をあらたな妻として迎えます。妙祐もまたはやくに没します。勝慧がいた下市の坊はのち願行寺という寺になります。

(熊野恒陽 記)