「本願寺教団 その二」

~本願寺が大きくなっていく要因~

三河の如光は、蓮如上人が本願寺の住持を継職すると、間もなく蓮如上人の弟子となって、本願寺に参入します。如光はもともと高田門徒に属した人です。如光は高田門徒から本願寺の門徒になったのです。

如光が高田門徒から本願寺門徒になったといっても、これは普通にいう転派というものとは違っています。転派とは明確な派の別があって、その上で一つの派から他の派へと転じることです。如光が高田門徒から本願寺門徒になった段階では、高田門徒と本願寺門徒との間にはいまだ明確な派の別はありませんでした。

派の別は対立の関係から生じるものですが、専修寺と本願寺の間には、元来、対立などはありません。専修寺と本願寺との関係はむしろ友好的な関係です。本願寺は親鸞聖人の廟堂としてはじまりますが、その廟堂に対し、もっとも協力的だったのは高田門徒です。専修寺はその後も本願寺との友好的な関係を保ちます。

専修寺と本願寺との関係が対立の関係になるのは如光が本願寺の門徒になったあとのことです。如光の寺である上宮寺が高田門徒から本願寺の門徒となったのち、三河では、勝鬘寺、本証寺といった高田門徒の有力な寺が続けて本願寺の門徒になっていきます。それを契機に専修寺と本願寺は対立する関係になります。

高田門徒の寺が高田門徒から本願寺の門徒となったとは、要は、蓮如上人がそれらの寺を本願寺の末寺としていったということです。高田門徒と本願寺門徒の派の別は、蓮如上人が本願寺を本寺とする門徒団形成の活動をはじめたことにより生じたものなのです。

元来、本願寺は独自に一派を形成するような寺ではありませんでした。蓮如上人が現われるまで、本願寺に一派を形成するような動きはみられません。本願寺は末寺を組織するような寺ではなかったのです。

本願寺のはじまりは親鸞聖人の廟堂ですが、この廟堂は親鸞聖人の門弟たちの総意によって建てられたものです。廟堂はどの門徒団に属するというものではありませんし、まして自らが一派を形成するという立場のものでもありません。蓮如上人までの本願寺の住持が独自に末寺を組織するということをしてこなかったのは、この廟堂の本来の立場に忠実であったからです。

蓮如上人が現われるまで本願寺が末寺を組織することはありませんでしたが、だからといって、本願寺の立場が弱いものであったというわけではありません。本願寺は親鸞聖人の門弟の総意によって建てられたため、どの門徒団にも属しませんでしたが、逆にそのために、どの門徒団とも接することができました。これは本願寺だけができたことであり、本願寺のもっていた大きな強みです。それぞれの門徒団の側にとっても本願寺住持は崇敬すべき対象であったはずで、実際、本願寺の住持は相当に敬われていたものと思います。

こうした本願寺住持の立場は、当然、蓮如上人にも受け継がれています。蓮如上人による本願寺を本寺とする門徒団形成の活動も、どの門徒団とも接することができ、門徒団の側からも敬われるという、本願寺住持の立場に立ってなされたのです。

蓮如上人の立場がそうしたものであるのなら、蓮如上人の時代に他の門徒団が本願寺の門徒になるということは、のちの時代の転派というものとはやはり大きく違っています。それぞれの門徒団にとっても本願寺は縁もゆかりもない存在というのではなく、反対に縁もあるし、敬ってもいた存在だったのです。縁といっても、その度合いには門徒団によって差はありますが、少なくとも他の門徒団と本願寺は対立する関係ではありませんでした。蓮如上人はそうした門徒団を本願寺の門徒へと取り込んでいったのです。さまざまな門徒団がたやすく本願寺に参入していった要因の一つは、この本願寺と門徒団との関係にあります。

このほかに門徒団が本願寺に参入していく要因となったのは、本願寺の末寺支配のあり方です。本願寺と末寺の本末関係は、本寺が末寺を強圧するといったような関係ではありません。本願寺が支配を押し通すといった関係ではないのです。末寺がさらに配下の道場を有していた場合にも、本願寺が末寺の有した道場にまで支配を及ぼすということもありませんでした。本願寺は門徒団の内部にまで介入することはなく、門徒団は門徒団としてまとまりを保つことができたのです。

門徒団としてのまとまりを崩され、さらに強圧的な支配をされるのであれば、門徒団は本願寺に参入などしません。強い支配を及ぼさないからこそ、門徒団は本願寺に参入していったのです。

(熊野恒陽 記)