「本願寺という存在」

~佛光寺と本願寺との違い~

蓮如上人が本願寺を本寺とする門徒団形成の活動をはじめると、各地の門徒団は次つぎに本願寺に参入していきます。門徒団は各地に散在し、なかば独立的な存在でした。そうした門徒団が相次いで本願寺に参入していったのです。小さな門徒団だけではなく、高田門徒からは三河の如光の上宮寺をはじめ、三河の勝鬘寺、本証寺といった大きな寺が本願寺に参入しますし、三門徒、毫摂寺、錦織寺、そして、佛光寺の門流も集団を分裂させて、大挙して本願寺に参入していきます。

いろいろな門徒団や諸門流が本願寺に参入したのはそうなるように蓮如上人が努力したからですが、それに加えて重要なのは、その努力が本願寺の住持の立場からなされたということです。本願寺は真宗のなかでは特別な存在なのであって、それぞれの門徒団も相手が本願寺であるからこそ参入していったのです。これが本願寺でなかったのなら、門徒団が相次いで参入するということはなかったと思います。蓮如上人によって本願寺はまさに真宗の勢力を一つにまとめ上げていきますが、それは本願寺だからできたことなのです。

本願寺は親鸞聖人の廟堂としてはじまります。廟堂は聖人の門弟たちがつどい、聖人の遺徳をしのぶ場所でした。廟堂は門弟たちが敬っていた場所なのです。蓮如上人の時代に本願寺に参入していった各地の門徒団の人たちとは、親鸞聖人が亡くなったあと、廟堂で聖人の遺徳をしのんでいた門弟たちの子孫や、その門弟からの法脈を受け継いだ人たちです。それぞれの門徒団と本願寺とは当初から関係があるのであって、門徒団はどの門徒団であれ本願寺との縁を有しているのです。そして、かつての門弟たちが廟堂を敬っていたように、その子孫や法脈を受け継いだ人たちも本願寺に対しては敬いの気持ちを抱いていたものと思います。

こうしてすべての門徒団との関わりを有することができたのは本願寺だけです。蓮如上人が現われる以前の真宗では、佛光寺と専修寺が大きく発展していましたが、佛光寺はあくまで佛光寺門徒の本寺であり、専修寺はあくまで高田門徒の本寺です。佛光寺門徒は佛光寺の法脈につらなる人たちによって成り立っており、高田門徒も専修寺の法脈につらなる人たちによって成り立っています。どちらも法脈の関係によって成り立っていますが、こうした法脈の関係にあっては、佛光寺の法脈でもなく高田の法脈でもない、全く別の法脈を受け継いだ人たちが、佛光寺なり専修寺とすすんで関わっていくということはないことです。まして佛光寺や専修寺を本寺と仰ぐこともありません。法脈の関係はいうなれば縦の関係です。他の法脈の人びとと交わるというのはいわば横の関係であって、縦の関係である法脈の関係では横の関係は築きにくいのです。佛光寺も専修寺も、現実にはかなり別の法脈の門徒団を門下に取り込んでいますが、本願寺のように大きく真宗の全体を門下に取り込むといことは難しいことだったのだと思います。

本願寺はそもそも親鸞聖人の門弟たちの総意によって建てられたものです。門弟たちそれぞれの法脈の違いを越えて建てられたのであって、本願寺は、元来、特定の法脈に属するというものではないのです。その上で本願寺は敬われてもいました。そうした存在であったからこそ本願寺はさまざまな門徒団を門下に取り込むことができたのです。

三門徒、毫摂寺、錦織寺といった諸門流の本願寺参入については『反故裏書』にまとまった記述がみられますが、『反故裏書』は諸門流が参入したことについて、諸門流は本願寺に戻ってきたのだと述べています。

こゝにひさしく疎遠の末弟も信証院御在世にい たり帰参の流々これあり

信証院とは蓮如上人のことであり、蓮如上人の在世中に諸門流が参入してきたといっていますが、その門流について、それらの門流と本願寺は久しく疎遠であったと記されています。久しく疎遠であったとは、それ以前には関係があったということです。諸門流を末弟といっているのは本願寺の側からの一方的ないい方ですが、この諸門流と本願寺はもともと関係があったということは正しい主張です。実際、どの門流も程度の差こそあれ、本願寺とは関係していました。こうしてどの門流とも関係していたのは本願寺だけであって、本願寺はまさしく特別な存在だったのです。蓮如上人の活動もそうした本願寺の立場を前提にはじめられたものです。蓮如上人の活動は、何もないところからはじめられたわけではないのです。

(熊野恒陽 記)