「興正寺門徒の参入」

~参入の時期と参入のかたち~

蓮教上人が本願寺に参入すると、多くの佛光寺の門末が蓮教上人に従い、本願寺に参入します。蓮教上人に従った門末は、佛光寺の門徒から、あらたに興正寺の門徒になります。

興正寺門徒は佛光寺門徒が本願寺に参入して興正寺の門徒となったものですが、本願寺への参入ということについていえば、興正寺門徒の本願寺参入の時期には、門徒ごとにいささかの違いがみられます。蓮教上人に従って、蓮教上人と同時期に本願寺に参入した門末がいる一方で、蓮教上人よりも、幾分、早くに本願寺に参入した者もいれば、逆に蓮教上人よりも遅くに参入した者もいるのです。

蓮教上人よりも早くに本願寺に参入した佛光寺門徒がいたことは、いうなれば当然のことです。本願寺では蓮如上人の長子である順如上人が佛光寺門徒の吸収につとめていましたし、蓮如上人の活動も、吉崎の退去後は佛光寺門徒の多くいた畿内を中心に行われています。佛光寺門徒で本願寺に参入したものは、相当数、いたはずです。蓮教上人にしても、本願寺参入の際には、そうした先に参入していた門徒を介して、本願寺に参入の意思を伝えています。

かの門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人に申されしかば、
則申入られ蓮如上人めしいだし給ふ

蓮教上人の本願寺参入について述べた『反故裏書』の一節です。蓮教上人は先に本願寺に参入していた門弟を介し、順如上人に参入の意思を伝え、さらに順如上人を介して蓮如上人に会ったと述べられています。

蓮教上人よりも遅くに本願寺に参入した門徒がいたこともまた、きわめて当然のことです。蓮教上人より遅くに本願寺門徒になった者とは、蓮教上人が本願寺に参入したあとに、蓮教上人に従って、本願寺に参入した門徒です。数としては、こうした門徒がもっとも多かったものとみられます。この遅く参入した門徒の場合には、二通りの参入の仕方があったのだと思います。一つは自ら進んで蓮教上人に従ったというもので、もう一つは蓮教上人の側のはたらきかけによって蓮教上人に従ったというものです。興正寺と佛光寺が分かれた時、佛光寺の方は門下の引き締めをはかり、門下が興正寺の方に流れないようにつとめています。佛光寺の側が門下へのはたらきかけをしているのであれば、蓮教上人の側も門下へのはたらきかけをしたはずです。

参入の時期とともに違っているのは参入の形態です。

蓮教上人の場合には、参入後は山科に移り住んでいます。この蓮教上人の山科への移住にともなって、ともに山科に移り住んだ門末もいますし、移り住まない門末もいます。

山科に移り住んだとみられるのは興正寺の末寺頭である端坊、東坊といった寺です。もう一つの末寺頭、阿弥陀寺は堺に本拠がありましたが、阿弥陀寺も山科には居所を設けたものと考えられます。このほか蓮教上人には佛光寺時代から野條帯刀という者が仕えていたと思われますが、この野條帯刀も蓮教上人とともに山科に移り住んだとみられます。蓮教上人とともに山科に移り住んだ人びとがはたしてどれ程になるのかははっきりとしませんが、もともとの佛光寺の門徒が山科に移り住むということは蓮教上人の移住後にあっても継続的にみられたものと思います。のちの山科の様子をうかがうと、興正寺は本願寺とともに山科にありますが、興正寺は土塁や堀で区分された土地のなかに建てられています。興正寺を中心に一つの区画が設けられているのです。区画された地はかなり広い面積の土地です。山科の様子を描いたとされる古い絵図にはこの土地に「佛光寺帰尊地」との注記が加えられていますが、合わせて「四十二坊トモニ」とも記されています(「野村本願寺古屋敷之図」)。蓮教上人に従ったといわれる四十二坊が興正寺とともにこの区画内にあったということですが、要は、興正寺の門下の者がこの区画のなかに集まり住んでいたということです。山科は本願寺を中心にいわゆる寺内町として大きく発展し、多くの人びとが集まり住みますが、そこからするなら、この興正寺門下が集まり住んだ地にも多くの人びとが住んでいたものと思われます。興正寺の門徒が継続的にこの地に移り住んでいたとみるべきでしょう。

山科に移った門末が多かったとはいえ、もとより大半の門末は参入後もそのまま同じ居住地にいます。興正寺門徒の本願寺参入では、蓮教上人より遅れて参入し、参入後も同じ所にいるというのがもっとも多い参入のかたちだということになります。

(熊野恒陽 記)