「興正寺門徒団の規模」

~興正寺門徒団と本願寺門徒団の連合~

蓮教上人に従って本願寺に参入した佛光寺の門徒は、参入後に興正寺の門徒になります。興正寺門徒になったのは、蓮教上人に従って参入した門徒だけではなく、蓮教上人より、幾分、早く本願寺に参入していた者も興正寺門徒になっています。蓮教上人が参入したことによって、あらためて蓮教上人の門下に属したのです。

もとの佛光寺門徒は興正寺門徒として、大きく結束していたということになりますが、もとの佛光寺門徒であっても、興正寺門徒となっていないという者もいます。佛光寺門徒でありながら興正寺の門徒になっていないことがはっきりと知られるのが、摂津国柴島(大阪市東淀川区)の万福寺です。万福寺には佛光寺の法脈に連なる先徳を描いた連坐像が伝えられており、佛光寺の門徒であったことは明白です。この連坐像には「日本血脈相承真影」との裏書が書かれていますが、裏書を書いたのは蓮如上人です。連坐像は万福寺の歴代である法実という者が所持していたもので、法実が蓮如上人に裏書を書いてもらったのです。法実は蓮如上人の門弟になったのであり、のちに万福寺となる法実の道場は蓮如上人の時代に佛光寺の門徒から本願寺の門徒に替わっているのです。

法実の道場、すなわちのちの万福寺は佛光寺門徒から本願寺の門徒に替わっていますが、この万福寺は興正寺の門徒ではありません。佛光寺門徒がすべて興正寺門徒になるというわけではなのです。

万福寺が興正寺門徒になっていないことについては、万福寺の本願寺参入と蓮教上人の本願寺参入との間に時間的なへだたりがあることが、興正寺の門徒にならなかったということと関係しているのだと思います。蓮如上人が書いた万福寺の連坐像の裏書には日付も書かれていますが、その日付は「寛正四年癸未九月九日」となっています。寛正四年(1463)には法実は蓮如上人の弟子になっているのです。蓮教上人が本願寺に参入するのは文明十三年(1481)ころのことですから、法実は蓮教上人が参入するより二十年近くも前に本願寺に参入していることになります。二十年近くも経っていれば、万福寺と本願寺との関係も深まっていますし、本願寺の教団内での万福寺の組織的な位置といったものも固定化していたはずです。そちらの関係が優先されて、万福寺は蓮教上人の参入後も興正寺の門徒にならなかったものと思います。

真宗の古い寺には、寺のいい伝えや、寺に伝わった品々などから、もとは佛光寺の門徒だったと思われるものの、興正寺の末寺にはなっていないという寺がいくつもあります。万福寺の例からするなら、それらの寺もやはりもとの佛光寺門徒なのであって、蓮教上人が参入するかなり前から本願寺に参入していたために興正寺の末寺にはならなかったのだと思います。もとの佛光寺門徒でも、蓮教上人より時間的にかなり先だって本願寺に参入していた者は、興正寺門徒にはならなかったのです。

佛光寺門徒であっても興正寺門徒とならなかった者は多くいたものとみられますが、もとより圧倒的に多かったのは興正寺門徒となった者です。蓮教上人に従った門末はきわめて多数におよんでいます。

蓮教上人に従ったのは、畿内をはじめとして、丹波、紀伊といった畿内周辺の地域、それに西国にいたる地域の門末です。それらの地域の門末が、蓮教上人とともに、あるいは蓮教上人の本願寺参入後に蓮教上人を追うかたちで、続々と本願寺に参入していったのです。

蓮教上人が本願寺に参入するのは山科本願寺の造営中のことです。そのころ本願寺の門末が多くみられたのは、畿内と近江、それに尾張、三河の東海地域、さらには越前、越中、加賀の北陸地域といった地域です。興正寺の門末は本願寺と同程度の範囲にひろがっていますし、興正寺の門末は本願寺の門末があまりみられない地域にもひろがっています。

蓮如上人の時代には、各地の真宗の門徒団や、三門徒や錦織寺といった門流の人びとが本願寺に参入していきますが、興正寺門徒の集団としての規模はそれらとは比較にならないほどに大きなものです。本願寺に参入した集団のなかもっとも大きかったのが興正寺であり、それも際立って大きかったのです。蓮如上人の時代の本願寺教団は、本願寺を中心にいろいろ門徒団が連合するというかたちで成り立っていましたが、蓮教上人の本願寺参入は、興正寺の規模からいっても、まさに蓮教上人に従った門徒団と本願寺門徒団とが連合したものと捉えることができます。

(熊野恒陽 記)