「興正寺四十二坊 その一」

~四十八とは~

蓮教上人の本願寺参入について、古くより蓮教上人は四十二の坊とともに本願寺に参入したということがいわれます。もともと佛光寺には四十八の坊があり、そのうち四十二坊が蓮教上人に従ったというものです。四十二坊が去ったあとには六つの坊がのこり、その六つの坊が佛光寺六坊となったのだとされています。

経豪被追退之時、寺僧四十八坊内四十二坊、
并牽諸国門徒数万入本願寺、境内所残唯々六坊有之

寛政四年(1792)、佛光寺で書かれた『佛光寺法脈相承略系譜』の一節です。蓮教上人は四十二坊と門徒数万人をひきいて本願寺に入り、佛光寺境内には六つの坊がのこされただけだったと書かれています。

佛光寺には四十八坊があったとして、四十八坊ということがいわれていますが、こうした寺に四十八坊があったとの伝えは、佛光寺以外にもいろいろな寺にみられるもので、特に珍しいものではありません。よく知られているところでは京都の石清水八幡宮が四十八の坊があったと伝えています。石清水八幡宮は神社ですが、以前は神仏混淆で、社僧が社務を支配していました。その時代、四十八の僧坊があったというのです。

四十二坊というのも同じで、これもまたいろいろな寺の伝えに出てきます。著名な寺では大山寺が、かつて寺に四十二の坊があったと伝えています。大山寺は鳥取県西伯郡大山町にある山岳仏教の寺です。

六坊というものにしてもいろいろな寺の伝えに出てくるものです。佛光寺本山以外では、たとえば京都東山の安養寺にかつて六坊があったとの伝えがあります。安養寺は法然上人の吉水の草庵の跡といわれる寺です。

六坊というものがひろくみられるのは理由のあることです。こうした坊というものは、寺の中心である本坊に対し、本坊を助け、本坊の仕事を手伝うという立場にあります。普通、本坊の仕事は各々の坊が当番を決めて順に手伝いますが、そうした場合、多くその当番は一箇月単位となっています。月ごとに一つの坊が当番となって、本坊の仕事をするのです。こうして月ごとの当番とするなら、本坊の一年、十二箇月の仕事は、坊が十二あれば、均等に割り当てることができることになります。六坊はその半分で仕事は年に二回の割り当てとなりますが、六坊、十二坊といったものは、こうした月当番ということから成立してきたものです。月当番で坊に仕事を任せるとのことは一般にひろく行われたものであって、それゆえに六坊、あるいは十二坊といったものはいたるところにみられるのです。

四十八坊や四十二坊、そして、六坊といったものは、それぞれにひろくみられるものといえますが、蓮教上人の本願寺参入にまつわる伝えには、それらが揃って出てきます。揃っているのも不思議ですが、四十二坊が去って六坊だけがのこったというのも不思議な話です。六坊というのは佛光寺に限らず、一般にもひろくみられるものです。六つの坊のみがのこったから、それが六坊となったとは考え難いことです。六坊の体制は蓮教上人の本願寺参入によってできたものなどではなく、それ以前からあったものとみるべきです。

文明十二年(1480)、佛光寺で覚書が書かれていますが、それには佛光寺では大事なことは評定衆五人の意見に上様の意向を加えて決めると書かれています。

当寺ノ御法度、太事之談合ニハ評定衆五人ノ異見、
上様ノ御意ヲ被得コトヲサタメ申サレソロ

これは性宗という僧が書いたもので、末尾には「文明十二年正月廿三日」との日付が書かれています(「西坊性宗覚書」)。上様とは佛光寺の住持で、住持の意見と評定衆五人の意見でことを決めるというのです。五人とはありますが、この評定衆というのが六坊を指すことは疑いないことです。この一文は評定衆の立場から書かれたものですが、これを書いた性宗は六坊の一つ西坊に属する人物です。蓮教上人の本願寺参入は文明十三年ころのことで、この覚書はまさに同時期に書かれたものです。その段階で、佛光寺では大事なことを評定衆と上様との意見で決めると書かれているのです。六坊の体制は蓮教上人の参入前からあったのです。

当初から六坊があったのなら、四十八坊とか、四十二坊とかいったものは六坊の存在をもとに、いわれ出したものということになります。四十八坊があったと伝える寺には、寺が繁栄していたというために坊が四十八あったといっている寺も多くみられます。佛光寺に四十八坊があったというのもそれと同じで、その四十八坊と六坊の存在から、蓮教上人に従ったのは四十二の坊だとされているのです。

(熊野恒陽 記)