「了源上人と存覚上人」~了源上人はいつ京都に来たのか~

本願寺は京都東山大谷にあった親鸞聖人の廟堂が寺となったもので、当初は聖人の門弟たちが共同で護持にあたっていました。『存覚一期記』には、この大谷の親鸞廟堂に興正寺を開いた了源上人がはじめておとずれたときの様子が記されています。

仏光寺空性初参[俗体弥三郎]、六波羅南方[越後守維貞]家人比留左衛門太郎維広之中間也、初参之時申云、於関東承此御流念仏、知識者甘縄了円、是阿佐布門人也、而雖懸門徒之名字、法門已下御門流事、更不存知、適令在洛之間、所参詣也、毎事可預御諷諫云々…其後連々入来、依所望、数十帖聖教或新草或書写、入其功了

佛光寺空性(了源上人)がはじめて大谷をおとずれてきた。俗体の姿で名を弥三郎といい、六波羅探題の北条維貞の家人比留維広の中間であった。了源のいうには、自分は関東でこの念仏の教えをうけており、師匠は鎌倉甘縄の了円(明光上人)で、この了円は阿佐布門徒のものである。しかし、門徒だといっても法門のことやこの親鸞門流のことなどはよくわかっておらず、たまたま京都にいるのでこの大谷に参詣した。これからもいろいろと指導にあずかりたい、とのことであった。その後もしばしばたずねてきて、希望にまかせ数十帖の聖教をあたらしく書いたり、写したりした。

『存覚一期記』は本願寺につらなる存覚上人が著したもので、存覚上人の立場から了源上人が語ったことがらが記されています。了源上人が大谷の廟堂をたずねたのは元応二年(1320)のことで、月日はわかっていません。この時、存覚上人は三十一歳、了源上人は三十六歳でした。

この年、了源上人はすでに京都にいて大谷の廟堂をおとずれているのですが、はたして上人がいつ関東から京都に移り住んだのか、これがはっきりとしません。一般には大谷をおとずれたのと同じ年のこととされ、関東から京都に来たので大谷をたずねたのだと考えられています。しかし、それでは辻褄があわないところがあります。むしろ上人はすでにその前年から京都に移っていたと考えた方がよいように思われます。

了源上人が山科に興正寺の建立を志して、そのための勧進をはじめるのはこの元応二年の八月のことです。この年に京都に来たというのでは、活動をはじめるための準備の期間がいささか短すぎるように思います。

勧進にさきだって、上人は興正寺に安置するための聖徳太子像を造立しますが、この像が完成したのも元応二年で、はやくも同年の一月に完成しています。太子像は関東で造られたとも考えられますが、京都で造られたと考えるのが自然と思えるところがあります。

像の制作の時間を考えるなら、上人は前年には京都に移っていたとみるべきで、翌元応二年になって京都での本格的な活動をはじめたということなのだと思います。大谷の廟堂をたずねたのも、元応二年にはじまる活動の一環ととらえられます。

了源上人が京都に進出するには上人の主人にあたる比留維広の支援があったとみられますが、その比留維広がつかえた北条維貞は、了源上人が大谷をおとずれた年の五年前から京都の六波羅探題の職についており、上人が京都に移るためのいわば下地はすでにととのっていました。

元応二年、京都で活動をはじめた了源上人が大谷の廟堂をおとずれたのはいうなれば当然のことで、この時代の大谷の廟堂はあくまで親鸞聖人の廟堂であり、聖人をしたう門弟たちがつどい、聖人の遺徳をしのぶ場所でした。のちに本願寺は一派の本寺となっていきますが、明確に一派の本寺となるのは蓮如上人以降のことで、それまでは真宗門徒共通の親鸞聖人の遺跡であり、いわゆる他派とも競合することはありませんでした。

本願寺の一族も他派と競合することなく真宗門徒とかかわっていて、聖教の書写や伝授を職掌としていました。了源上人が存覚上人に指導をあおいだというのも、存覚上人がそうした職掌をになっていたということであって、師弟関係になったというのではありません。
了源上人がいっているように師匠は明光上人であり、存覚上人はそれと競合する立場にはありませんでした。存覚上人は以後も了源上人と深くかかわっていきますが、師弟関係というよりも、教学の面では存覚上人が了源上人をたすけ、逆に生活の面では了源上人が存覚上人をたすけるという双務的な関係でのかかわりがつづきます。

(熊野恒陽 記)