「参入の理由 その一」

~古くからの伝え~ 

蓮教上人が本願寺に参入した理由については、古くから、さまざまなことがいわれています。

蓮教上人が本願寺に参入したのは本人の意思ではなく、継母との軋轢から佛光寺を出るようにしむけられて本願寺に参入したのだとか、比叡山の圧迫によって本願寺に参入したのだといったものです。あるいは蓮教上人は早くから深く蓮如上人に帰依していて、それで蓮如上人の弟子になったのだといわれたりもします。

このうち蓮教上人に継母がいて、その継母との軋轢から佛光寺を出ることになったというのは『紫雲殿由縁記』という書にみえるものです。

経豪自発ニモ非ス、継母ノ難ヨリ逆心起レリ

蓮教上人の本願寺への参入は自発的なものでなく、継母との関係から佛光寺への逆心が起きたのだといっています。これが本当であるなら、蓮教上人の本願寺への参入は必ずしも蓮教上人の本意ではなかったということになります。しかしながら、この蓮教上人に継母との軋轢があったという話は事実を伝えるものとは思われません。この話では、蓮教上人の母は継母であり、その継母と蓮教上人は不和であったとされています。しかし、実際には、蓮教上人の母にあたる人物は、蓮教上人の本願寺参入に際し、上人に従って佛光寺から興正寺へと移っています。不和どころか行動をともにしているのです。そして、さらにいえば、この蓮教上人に従った母は継母などではなく、実母だと考えられます。こうしたことからいって、蓮教上人に継母がいて、蓮教上人とその継母が不和であったということを事実とみることはできません。

蓮教上人の母が上人に従ったということは、蓮教上人の弟の経誉上人の書状から知られることです。経誉上人は蓮教上人が去ったのちの佛光寺を継いだ人ですが、蓮教上人の去った直後、佛光寺では六坊の力が強まり、経誉上人も六坊の協力がなければ住持としての仕事は何もできないという状況におかれます。蓮教上人の母のことは、その六坊に宛てた経誉上人の書状に出てきます。その書状のなか、経誉上人は、今後、「めうけい院」と会うこともないし、親とも思わないと述べています。加えて、これからは六坊の坊主たちを親と思うようにするとも述べています(「光薗院文書」)。

経誉上人は六坊に対し、「めうけい院」と親子の縁を切ることを誓っているわけですが、六坊に誓っている以上、これは単に経誉上人の個人的な事情から親子の縁を切ったということではなく、「めうけい院」が佛光寺に敵対したことから縁を切ることになったということになります。そうであるなら、これは「めうけい院」が蓮教上人に従ったことから縁を切ったものとしか考えられません。「めうけい院」は蓮教上人に従ったのです。蓮経上人が本願寺に参入するのは、父である性善上人の亡くなったあとのことであり、この「めうけい院」が母であることは間違いのないことです『紫雲殿由縁記』は継母との軋轢から蓮経上人は佛光寺を去ったのだといっていますが、母との縁ということでいえば、逆に佛光寺にのこった経誉上人の方が母との縁を切らなくてはならなかったのです。

比叡山の圧迫によって本願寺に参入したというのは、比叡山の衆徒が佛光寺に圧力を加えたことが参入の要因となったとするものです。比叡山が佛光寺に圧力を加えたのは事実であり、比叡山は文明十三年(1481)十一月三日、蓮教上人の住持職の解任を求めた議定書を発しています。そして、蓮教上人もそれを機に山科へと移っています。しかし、この比叡山からの圧迫を参入の要因だとすることはできません。その議定書で比叡山の衆徒がいっているのは、蓮教上人は本願寺に与して邪宗である無碍光の義を張行しているから、住持の職を解いて追放せよということです。蓮教上人はすでに本願寺に与しているのです。圧力が加わる前から本願寺に与しているのであれば、比叡山の圧迫によって本願寺に参入したとはいえません。比叡山の圧迫は蓮教上人が山科へと移る契機とはなりましたが、本願寺へ参入する理由はほかにあることになります。

蓮教上人が深く蓮如上人に帰依していたというのは、蓮教上人が一方的に蓮如上人に帰依して本願寺に参入したとするものです。蓮教上人はそれこそ身一つで参入したようにいわれたりもします。しかし、これも事実を伝えるものだとは思えません。

蓮教上人の参入の理由については、古くから、さまざまにいわれていますが、いずれも参入の理由とはいえないようです。

(熊野恒陽 記)