「参入の理由 その三」

~広範にひろがる門末の維持~ 

蓮教上人が本願寺へ参入したのには、いくつもの要因があったものとみられます。山科に興正寺を再興するというのも要因の一つですし、順如上人の存在もまた要因の一つです。

このほかの大きな要因としては、門末の維持ということが挙げられます。佛光寺は多くの末寺と門徒を有した寺です。蓮教上人はその佛光寺の住持だったのであり、佛光寺の住持であったときには門末の維持ということに特に気をつかっていたものと思われます。参入に際しても、蓮教上人がまず考えたのは門末のことであったと思います。参入しても門末は誰も従わないというのでは、参入するはずはありません。

蓮教上人の本願寺参入に際しては、多くの門末が蓮教上人に従います。蓮教上人の本願寺参入については、蓮教上人に従って本願寺に参入した門末は少なかったといわれることもありますが、それは誤りです。蓮教上人に多くの門末が従ったことは間違いないことです。

蓮教上人の本願寺参入について、のこされた佛光寺の側は、古くから、蓮教上人には多数の門末が従い、佛光寺は壊滅的な状態におちいったといっています。佛光寺にのこった門末もかなりあって、ほとんどの門末が蓮教上人に従ったわけではありませんが、蓮教上人に多数の門末が従ったというのは確かなことです。興正寺とその後の佛光寺の門末を比べると、門末の数は興正寺の方がはるかに多かったのだと思います。

興正寺と佛光寺の規模の差は時代の経過とともにますます大きくなっていきます。興正寺の方は以後も門末を増やし続けていったのです。興正寺は本願寺下にあって門末を増やしたことになりますが、興正寺と佛光寺の門末は、単に数が違っているというだけではありません。門末の分布する範囲が大きく違っています。

佛光寺の末寺があったのは近江、摂津、河内といった近畿の各地です。近畿以外にもないわけではありませんが、ごくわずかです。末寺があったのはほぼ近畿に限られています。門末の分布した地は佛光寺のある京都から近い地ということになります。いまの佛光寺には新潟県や九州の各県にも末寺がありますが、それらの寺はのちの時代に末寺になったものです。

これに対し、興正寺の末寺は近畿にも多くありましたが、それに加え、九州、山陽、四国の各地、それに北陸や東海の各地にもありました。佛光寺とは比較にならないほど広い範囲に門末が分布しています。興正寺の末寺については、蓮教上人の代のことははっきとせず、こうした広範な地域に末寺があったことが確実に知られるのは蓮教上人の子息である蓮秀上人の代のことです。しかし、蓮教上人の代に末寺がなかったのに、蓮秀上人の代になって急に末寺ができたとも考えられません。蓮教上人の代から広範な地域に末寺があって、蓮秀上人の代にはそれを土台にさらに末寺が増えていったとみるべきでしょう。

こうした門末の分布する範囲の違いは、興正寺と佛光寺の違い、つまりは本願寺に関係するかしないかということから生じたものと思います。興正寺は本願寺の傘下に入ることにより、広い範囲の末寺を維持することができたのです。それどころか、末寺を増やしてさえいます。本願寺に参入することによって広い範囲の末寺を維持することができたのなら、蓮教上人は広範にひろがる門末を維持するために本願寺に参入したということになります。広い地域に門末がひろがっているのであれば、門末を維持するにはそれだけ大きな力が必要です。本願寺に参入して力を合わせるなら力はより大きくなるのであって、門末の維持もより安定したものとなります。蓮教上人は門末の安定した維持をはかるために本願寺に参入したのです。

佛光寺の末寺は遠隔地にないのに興正寺の末寺は遠隔地にあるということは、遠隔地の門末は蓮教上人に従ったということです。蓮教上人の本願寺参入の際、興正寺と佛光寺はそれぞれ門末に対し帰属を求めたものとみられますが、佛光寺の方は遠隔地にまで力を及ぼすことができなったのです。その後も佛光寺が広範な地域に大きく門末を増加させるということはなく、佛光寺は限られた地域に門末を有する寺になっていきます。これは専修寺や錦織寺にもいえることであって、本願寺に関わらなかった寺は同様に限られた地域にしか門末を持たない寺になっています。本願寺だけが大きく門末を増やしていったのであり、蓮教上人もその力を頼って本願寺に参入したのです。この門末の維持ということも参入の大きな要因です。

(熊野恒陽 記)