「参入の理由 その四」

~本願寺の側の要因~ 

蓮教上人は門末の安定した維持をはかるために本願寺に参入します。興正寺の門末は、近畿をはじめ、西日本の各地、それに北陸、東海の各地にひろがっており、それら広範な地域にひろがった門末の安定した維持をはかるため本願寺に参入したのです。維持するばかりでなく、興正寺は本願寺に参入することによって門末を増やしてもいます。

蓮教上人に従った門末やその後に増えた門末は多大な数に達しましたが、これらの興正寺の門末はあくまで興正寺の門末です。本願寺が興正寺と門末との関係にまで干渉するということはありませんでした。興正寺の門末は興正寺の門末としてのまとまりを保っていたのであり、門徒団としての自立性にも相当に高いものがありました。興正寺門徒は本願寺参入後にあっても門徒団としての自立性を失っていないことになりますが、この参入後にあっても門徒団としての自立性を保つことができるということも、蓮教上人が本願寺に参入する要因の一つであったのだと思います。

蓮教上人が本願寺に参入するといっても、蓮如上人の時代に本願寺に参入するのは蓮教上人だけではありません。越前三門徒の人びとも本願寺に参入しますし、毫摂寺の善鎮、錦織寺の勝慧といった人たちも本願寺に参入しています。蓮教上人だけではなく、他の門流の人たちも本願寺に参入しているのであれば、参入の要因は蓮教上人の側だけではなく、本願寺の側にもあったということになります。だからこそ他の門流の人たちも本願寺に参入していったのです。

蓮如上人の時代の本願寺は各地の門徒団を取り込み、それをまとめ上げることで大きく発展していきます。門徒団を門徒団のまま大きくおさえ、門徒団の内部の関係にまでは干渉しないというのが本願寺の態度です。門徒団は門徒団としての自立性を保っているのであり、本願寺はそうした門徒団をまさにたばねるようにまとめ上げていったのです。各地の門徒団よりも大きい三門徒や、毫摂寺、錦織寺といった門流に対しても同じで、本願寺は門流の内部にまで強い支配を及ぼしませんでした。門流は自立性を保っていたのであって、本願寺はそれらをそのまままとめていったのです。かたちとしては、本願寺を中心にそれらの門流が連合しているといったようなかたちになっています。

門徒団や門流は、以前のまとまりをそのままのこし、自立性も保てるのであり、本願寺との関係も本願寺を中心に連合しているといった関係です。これは門徒団や門流にとっても不利なことではありません。門徒団なり、門流なりが本願寺に参入していく一因は、この門徒団や門流を大きくおさえ、内部の関係にまで介入しないという本願寺の態度にあったのだと思います。

蓮教上人にしても同じです。興正寺の規模は三門徒や毫摂寺といった門流の規模よりはるかに大きく、興正寺と本願寺の関係はまさにこの連合というべき関係です。本願寺との関係はまさに連合しているというべき関係であり、門下との内部の関係にまで干渉されることがないのなら不利になることはありません。蓮教上人も興正寺門徒は興正寺門徒として自立性を保てるからこそ本願寺に参入したのです。蓮教上人が本願寺に参入したのにはいくつも要因がありますが、これまた一つの要因です。

本願寺は門徒団や門流の内部にまで強い支配を及ぼすことはありませんでしたが、これにより門徒団や門流は内部で成立していた本末の関係などをそのまま本願寺下に持ち込むことができました。たとえば相模国の最宝寺は、はやくから備後国に光照寺という末寺を有し、その光照寺の下にも多くの末寺や道場があるという本末の関係を形成させていましたが、この関係は本願寺下に持ち込まれ、最宝寺は本願寺下にあっても光照寺を末寺にしていました。最宝寺は興正寺の第六世とされている明光上人が開いた寺です。

本願寺は門徒団をそのまま取り込み大きく発展していったわけですが、逆に門徒団の側も本願寺に参入することでのちの時代にまで門徒団としてのまとまりをのこすことができました。相模の最宝寺は遠く備後に末寺を持っていましたが、最宝寺だけの力で備後の末寺を永続的に維持するということは難しいことのように思われます。本願寺に参入したからこそ安定して維持することができたのです。同様のことはどの門徒団にもいえることです。どの門徒団も本願寺に参入し、本願寺の力を後ろ盾にすることで、門徒団としてのまとまりをのこすことができたのです。

(熊野恒陽 記)