「その後の佛光寺」

~協力しあって再興へ~ 

蓮教上人は佛光寺の住持のまま本願寺に参入します。蓮教上人は佛光寺を出て興正寺を再興しますが、のこされた佛光寺の側は蓮教上人が去ったことで大きな混乱におちいります。

蓮教上人が去ったあとの佛光寺を継いだのは蓮教上人の弟、経誉上人です。経誉上人は京都百万遍の知恩寺に入寺していましたが、蓮教上人が去ったため佛光寺に呼び戻されたのだと伝えられています。経誉上人が佛光寺を継いだ時には光教上人もいまだ健在です。光教上人は、蓮教上人、経誉上人の叔父で、蓮教上人の前の代の佛光寺の住持です。佛光寺の住持職は性善上人、光教上人、経豪上人、経誉上人と継承されますが、性善上人と光教上人は兄弟であり、経豪上人、つまりは蓮教上人と経誉上人は性善上人の子です。

経誉上人が住持職に就いたといっても、それは多分に形式的なもので、実質的に住持の仕事をつとめたのはこの光教上人です。光教上人は佛光寺山内に大きな力を持ちましたが、光教上人とともに力を持ったのが六坊の住持たちです。

蓮教上人の本願寺への接近は比叡山の反感を招き、比叡山は佛光寺に圧迫を加えますが、比叡山の圧迫は蓮教上人の本願寺参入後にも続きます。そうした圧迫に対し、佛光寺は佛光寺の再興を誓った上申書を本寺である妙法院に提出しますが、その上申書のなか、中納言殿と五人衆が力を合わせて正法を再興すると述べられています。

一、為本願寺邪法之間、不可参会之事
一、中納言殿五人衆中、永以一味之儀、已後猶可遂正法再興之本意之事
(「佛光寺文書」)

中納言殿とは経誉上人のことです。五人衆とは集団で佛光寺の運営を行なっていた人たちのことで、六坊の住持たちのことです。五人衆は別に評定衆ともいわれます。経誉上人と六坊の住持たちが末永く協力し正法を再興すると述べられているのです。佛光寺は佛光寺住持と六坊の住持たちが協力することで成り立っていたのであり、六坊の住持の協力がなくては佛光寺の運営はできなかったということが分かります。

この上申書でまずいわれているのは、本願寺は邪法であり、本願寺とは関係しない、ということです。本願寺に対する批判は続き、これ以外にも、佛光寺の門徒で邪法に従う者がいるならたとえそれが一人であっても成敗を加えるとか、邪法に従う者はどのような者であれ許さない、といったことなどがいわれています。本願寺と佛光寺は関わりがなく、関わりもしないというのがここでの佛光寺の主張です。

佛光寺の再興は、経誉上人と光教上人、それに六坊の住持たちが協力し合って進められることになりますが、経誉上人たちが取り組んだ再興への営みのなか、もっとも大きな営みとなったのは堂舎の再建です。佛光寺の堂舎は応仁の乱の戦火によって焼失して以来、再建されず、蓮教上人が佛光寺の住持であった間も堂舎は失われたままでした。堂舎の再建が始まるのは文明十五年(1483)七月のことです。再建にあたってはまず奉加帳が著されますが、そこにはちかごろは教えが乱れているので堂舎を建ててもとのように正しい教えを興隆したいということが述べられています。

コノ比、諸方ノ迷徒恣ニ私曲ヲカマヘテ、ミタリニ邪執ノ見解ヲ説テ、我流ノ正義ト号シ万人ヲ狂惑ス、是カタメニ仏法已ニ破滅ニ及ヒ、門弟皆正理ヲ失フ、今願ハ一寺ヲ建立シテ法跡ヲツキ、邪正義ヲ分別シテ元ノコトク勤行ヲ修スヘシ

諸方の人びとが勝手なことをいって教えが乱れたとは、蓮教上人の本願寺参入により、門弟たちが見方するか反対するかで大きく混乱したということをいったものです。その混乱を収めるために堂舎を再建するのだと述べられているのです。

この再建はまさに経誉上人、光教上人と、六坊の住持たちの協力によって進められていきます。のちの時代の佛光寺の堂舎の建立の仕方をみると、佛光寺では佛光寺住持と六坊の住持が受けもちを分け、一つの建物は佛光寺住持が建立し、別の建物は六坊の住持が建立するというふうに分担して堂舎を建立しています。分担して堂舎を建立していることが確認できるのはのちの時代のことですが、分担して堂舎を建立するというのは早くから行なわれたものとみられ、文明十五年の再建の際も分担して堂舎が建立されたと思われます。佛光寺の再興はまさしく佛光寺の住持と六坊の住持の協力のもとに進められていったのです。

(熊野恒陽 記)