「格別の待遇」

~斎への招待~ 

蓮教上人は文明十三年(1481)ころ、本願寺に参入しますが、参入後の上人の様子については、正確なことはほとんど知ることができません。わずかに知られるのは延徳元年(1489)十一月二十五日に本願寺の報恩講の斎に招かれたということです。

同元年十一月廿一日夜より報恩講の次第
廿二日朝の御時、浄恵、福田寺、誓願寺…
廿五日出口対馬、夕部は吉野衆、御式は上様、
佛光寺殿御時にめしけり(『空善記』)

佛光寺殿とあるのが蓮教上人のことです。この延徳元年は蓮如上人が隠居した年です。蓮如上人はこの年の八月二十八日に住持の職を実如上人に譲り、隠居所である南殿に移ります。したがって延徳元年の報恩講の際の本願寺の住持は実如上人であり、蓮教上人は実如上人の代となって初めての報恩講の斎に招かれたということになります。参入以来、八年ほどが経過しており、このころになると蓮教上人を取り巻く状況もかなり落ち着いたものとなっていたと思われます。

本願寺の報恩講の斎は日によって斎の経費を負担する寺が決まっており、毎年、同一の寺が同じ日の斎の経費を負担します。これは必ずしも一回の斎の経費を一寺が負担するというのではなく、いくつかの寺が組んで集団で経費を負担するということも行なわれています。本願寺の報恩講では斎に限らず、非時でもこうした形式が採られ、非時の方も日によって経費を負担する寺が決まっています。斎は午前の食事、非時は午後の食事のことです。非時の方も一回の非時の経費を一寺が負担するばかりではなく、いくつかの寺が集団で負担するということも行なわれています。

斎と非時は勤行をともなった行事で、それぞれに勤行がつとめられます。勤行の調声は経費を負担した寺の僧がつとめ、斎の勤行は斎の経費を負担した僧の調声で、非時の勤行は非時の経費を負担した僧の調声でつとめられます。つとめられるのは正信偈に和讃三首です。この斎や非時の経費を決まった寺が負担し、その寺の僧が勤行をつとめるという行事は蓮如上人の在世中から行なわれていたものですが、これはいまも続けられている行事であり、西本願寺では現在も同様の行事が行なわれています。

蓮教上人の招かれた斎については出口対馬との名が記されており、蓮教上人はこの出口対馬が経費を負担した斎に招かれたということが知られます。出口対馬なる人物についてはよく分かりませんが、出口は蓮如上人が山科に移る前に滞在していた地です。対馬はその出口にいた有力な門弟であったのだと思われます。

蓮教上人は本願寺の報恩講の斎に招かれていますが、この招かれたということに本願寺と蓮教上人との関係が示されています。本願寺の門下の者が本願寺の報恩講におもむくのは、参詣するか、出仕するか、あるいは斎や非時の経費を負担して斎や非時を振る舞うためにおもむくかです。これに対し、蓮教上人は報恩講に招かれています。招かれているということは、もてなされているということです。蓮教上人は本願寺からもてなされるべき立場にあったのです。本願寺の蓮教上人に対する待遇は明らかにほかの門下に対する待遇とは違っています。蓮教上人は格別の扱いを受けているのであり、以後の時代にあっても、興正寺は格別の扱いを受けつづけます。

本願寺が興正寺の待遇を格別なものとするのは、興正寺が佛光寺以来の由緒を誇る寺であり、配下の門末の数も多大な数に及んでいたからです。蓮教上人の本願寺参入については、蓮教上人に従って本願寺に参入した佛光寺の門末は少なかったとか、蓮教上人は蓮如上人に帰依し、それこそ身一つで蓮如上人の弟子になったのだといったようなことがいわれることがありますが、そうした考えが誤りであることはこの蓮教上人に対する本願寺の待遇のあり方をみても分かることです。もともとの佛光寺が大きく発展した寺であり、蓮教上人もそれを引き継いで大きな力をもっていたからこそ本願寺も格別の待遇をしていたのです。

蓮教上人の時代以後も興正寺は本願寺から格別の扱いを受けつづけますが、格別といっても、本願寺の扱いは時代とともにいささかは変わっていきます。もとよりそれは幾分か変わったという程度のものであって、興正寺が本願寺下にあって特別な位置にあったということに変わりはありません。佛光寺以来の由緒を誇る寺であり、門末もまた多かったために、興正寺は格別の扱いを受けつづけたのです。

(熊野恒陽 記)