「参入の意義」

~阿房様といわれたことも~ 

江戸時代の末期、興正寺での蓮教上人の評判はあまりかんばしいものではありませんでした。江戸時代は興正寺が本願寺と対立を深め、本願寺からの独立をはたそうとしていた時代です。本願寺との対立が深まるなか、そもそも興正寺と本願寺との関係は蓮教上人にはじまるものであり、蓮教上人が本願寺に参入しなければ本願寺と関係することもなかったのだとして、本願寺に対する不満が蓮教上人へと向けられていったのです。蓮教上人を揶揄して阿房様と呼ぶことすらあったと記している書もあります。その書によると、蓮教上人の正忌には、今日は阿房様の正忌だ、などとささやかれたのだといいます。その書の筆者が、どうして阿房様と呼ぶのかと問うと、本来、一派の本山であるべき寺をほかの寺の末寺としたから、阿房様と呼ぶのだと答えたとも記されています。(『改邪鈔会通返破』)

蓮教上人に対する批判は本願寺との対立の深まりとともに生じてきたものですが、本願寺と対立したにしても、その不満を蓮教上人に向けるのは誤りです。これでは蓮教上人が本願寺に参入したことには意味がなかったということになります。

本願寺との関係は蓮教上人にはじまることであり、本願寺と関係していたためにのちに興正寺と本願寺とが対立するようになったのは確かなことですが、本願寺と関係することによって興正寺に有利になったことも多くあります。まずあげられるのは門末の維持ということです。興正寺の門末は広範な地にひろがっていましたが、広範な地にひろがる門末を安定して維持するのは容易なことではありません。門末の分布する範囲が広いなら、それだけ大きな力が必要です。本願寺と力を合わせれば力はより大きなものとなるのであって、門末の維持もまた安定したものとなります。さらに門末の維持ということに加えて、興正寺は本願寺の傘下にあって門末の数を増やしてもいます。興正寺の当初の門末は蓮教上人とともに本願寺に参入した門末です。興正寺は当初から多くの門末をかかえていましたが、興正寺の門末は時代とともにさらに増えていきます。そうして増えた門末には、佛光寺以来の門末がもとになって増えた門末もいますが、全くあらたに興正寺の門末になっていったという門末もいます。興正寺の門末の増加には著しいものがありますが、門末が増加したのは、興正寺が信仰を集めたということだけではなく、興正寺が本願寺の傘下にあったということも大きな要因になっています。興正寺門徒はより大きくみれば本願寺門徒なのであり、本願寺の門徒であるがゆえに興正寺の門徒も増えていったのです。本願寺の発展に乗じるかたちで興正寺も発展したといえます。

興正寺の門末については、興正寺があたかも独力で多数の門末を獲得したようなことがいわれることがありますが、それは間違いです。本願寺の傘下にあったということも興正寺が多くの門末を擁した要因です。興正寺の門末については、興正寺の門末をすべて佛光寺以来の門末とみて、もとの佛光寺は巨大であったということがいわれることもありますが、これなどはなおのこと間違いだといわなくてはなりません。

興正寺の門末についての見方は極端で、一方では、興正寺の門末は本願寺の傘下にあって獲得したものだということもいわれます。蓮教上人に従ったのはわずかな人びとで、興正寺は本願寺のもとで大きな寺となったのだとするものです。これは江戸時代の興正寺と本願寺との対立のなか、本願寺の側からいわれ出したものです。興正寺は本願寺のもとで発展した寺であり、本願寺に逆らうべき立場にはないとするのが本願寺の主張です。この興正寺の門末は本願寺のもとで獲得したものだとする説は、本願寺の側には都合のよい説であるだけに、現在にいたるまで繰り返し説かれつづけています。しかし、繰り返し説かれているからといって、この説が正しいということにはなりません。蓮教上人が多くの門末と参入したのは明らかです。

こうして極端に本願寺のもとで門末を獲得したということだけを強調するのは間違いですが、興正寺が本願寺の傘下にあって門末を増やしたのは事実です。本願寺と関係することによって興正寺に有利になったということは、これら門末のこと以外にも多多あります。蓮教上人の本願寺参入に意義があったことは認められるべきであり、一方的に蓮教上人に批判を向けることは誤りだとしなければなりません。

(熊野恒陽 記)