「興正寺建立 その一」

~仏像を見せて勧進を行った~

元応二年(1320)、京都での本格的な活動をはじめた了源上人は、興正寺の建立を志し、同年八月から堂舎造立のための勧進をはじめます。勧進をはじめるにあたって、上人は堂舎を建立する趣旨を述べた勧進帳を著しており、堂舎建立にむけ上人がいだいた思いをうかがうことができます。

この勧進帳は上人の名で著されていますが、実際に文章を作ったのは存覚上人ではないかともいわれます。了源上人が存覚上人に指導をあおいでいることから十分に考えられることで、了源上人の意を聞いて存覚上人が勧進帳にあう文章にしていったということなのだと思います。

コトニ十方檀那ノ助成ヲカウフリテ、山城ノ国山科ノホトリニオイテ、
一宇ノ小堂ヲ建立シテ、弥陀如来ナラヒニ聖徳太子ノ尊容ヲ安置シタテマツリ、
念仏三昧ヲ勤行シテ有縁無縁ノ幽霊ヲトフラハントコフ子細ノ状

諸方からのたすけをえて、山城国山科の地に堂を建立し、そこに阿弥陀如来と聖徳太子の像を安置して、念仏を行じ縁ある者なき者ともにその亡魂をとむらいたい。

勧進帳の冒頭、全体の要旨をまとめこう述べられています。以下、堂舎建立の詳細な趣旨を述べ、勧進への協力をもとめる記述がつづきますが、いわれているのは阿弥陀如来と聖徳太子の二尊を安置する堂を建てたいということで、その堂を建てるための勧進に協力するようにもとめられています。

堂に安置するための二尊はすでに準備されており、勧進帳には、如来像と聖徳太子像は現にこれをあがめていると記されます。

弥陀ノ尊形ニオイテハ、有縁ノ古像ヲエテ、モテコレヲ渇仰シ、
太子ノ聖容ニイタリテハ、彫刻ノ微行ヲイタシテ、モテコレヲ帰敬ス…

阿弥陀如来像は、縁ある古像をえて、これをあおいでおり、聖徳太子像は彫刻をほどこし作り上げ、これをうやまっている。

一紙半銭の喜捨をもとめる勧進をおこなって堂舎を建立する場合、あらかじめ仏像を用意し、仏像を見せながら喜捨をあおぐことは、当時、普通におこなわれていたことで、了源上人もこの二体の像を各所に運んで、像を見せながら喜捨をあおいだものとみられます。

この二体の像はいまも佛光寺本山に伝えられており、如来像は阿弥陀堂の本尊とされ、聖徳太子像も阿弥陀堂の脇壇に安置されています。太子像は胎内文書があって了源上人が作ったものであることは明白で、如来像も様式から平安時代末期の製作と考えられ、勧進帳にいう古い像を入手したとの記述と一致することより、この時のものとして間違いないといわれます。

聖徳太子像は太子十六歳の姿とされる童形の立像で、右手に 笏(しゃく)、左手に柄香炉をもっています。この形式は古い時代の真宗ではことに好まれた形式で、了源上人もそれにならってこうした姿の像を作ったようです。

太子像におさめられた文書によると、この像が開眼されたのは元応二年の正月二十八日で、像の製作には 湛幸(たんこう)という仏師があたっています。湛幸が製作した像はほかにもあって、兵庫県神戸市有馬の善福寺という曹洞宗の寺院に伝えられる、聖徳太子二歳の姿とされるいわゆる南無仏太子像もこの湛幸の作であることが知られていて、このほか佐賀県にも湛幸の作った仏像がのこされています。湛幸は 慶派(けいは)といわれる流派に属した仏師とみられており、鎌倉末期にかなり活躍した仏師だったようです。

太子像におさめられた文書は、上人にかわって円空という人物が筆をとったもので、上人は花押だけをすえています。円空は出雲路派本山の豪摂寺を開いた人で、一般に乗専の名で知られています。乗専は本願寺の覚如上人に教えをうけており、毫摂寺との寺号も覚如上人の号である毫摂からとられたものです。

了源上人にかわって乗専が筆をとっているのはいささか不思議な感じがしますが、これは太子像の開眼供養の導師を乗専がおこなったから、そのために胎内におさめる文書も乗専によって書かれたのではないかと思います。

元応二年に上人がはじめて大谷の廟堂をおとずれた時、上人の姿は俗体であったといわれます(存覚一期記)。だとすると、太子像の開眼の時にもおそらくは俗体であり、それをはばかって上人は乗専に導師を依頼したのではないかと思います。開眼供養の導師なら、願主にかわって筆をとったとしても何の疑問もありません。

(熊野恒陽 記)