「蓮秀上人」

~得度には蓮如上人が関係する~ 

蓮教上人は延徳四年(1492)五月二日に亡くなります。蓮教上人が亡くなったあとの興正寺を継いだのは蓮秀上人です。蓮教上人が亡くなったのは蓮秀上人が十一歳であった時のことです。これについては、蓮教上人が亡くなったのは蓮秀上人が十二歳の時のことだとする別の説もあります。上人の生年については二つの説があるためこうした違いが生じてきます。

一般に蓮教上人は文明十四年(1482)に生まれたとされています。本願寺の証如上人の日記である『天文日記』には、天文二十一年(1552)七月十日、蓮秀上人が七十一歳で亡くなったと書かれています。天文二十一年に七十一歳で亡くなっているのであれば、生年は文明十四年ということになります。日記は毎日の出来事をそのまま書いていくものであり、この『天文日記』の記述は信頼できるものです。『天文日記』には七十一歳で亡くなったと書かれていますが、蓮秀上人の亡くなった際の年齢についてはまた別の所伝があります。別の所伝では蓮秀上人は天文二十一年七月十日に亡くなったとするものの、亡くなったのは七十一歳でなく、七十二歳だとします。七十二歳なら生年は文明十三年ということになります。この蓮秀上人が七十二歳で亡くなったとする所伝は興正寺に伝えられる所伝です。興正寺は古くから蓮秀上人は七十二歳で亡くなったと伝えているのです。

蓮秀上人が七十二歳で亡くなったとするのはあくまで伝承ですが、その伝承が興正寺に伝えられるものであるだけに、一概に誤りだといい切ることもできません。何らかの根拠があって伝えられてきたものと思われますし、蓮秀上人が文明十三年に生まれたとしても、それはあり得ないことではないのです。

蓮秀上人の生年が文明十三年であることもあり得ないことではないということからすれば、蓮秀上人が文明十三年に生まれたとする興正寺の所伝も、上人の生年についての一つの説だということになります。しかし、蓮秀上人が文明十三年に生まれたとなると、逆に『天文日記』の記述が誤っているということになります。『天文日記』の記事は、蓮秀上人が亡くなったことを聞いた証如上人が、聞いたことをそのまま書いたものです。証如上人は蓮秀上人と日常的に親しく接しており、当然、蓮秀上人の年齢についても知っていたはずです。記事に誤りがあるとは考えがたいことです。蓮秀上人が文明十三年に生まれたとするのは、文明十三年に生まれたということもあり得ないことではないということから成り立っている説ですが、では本当に蓮秀上人は文明十三年に生まれたのかとなると、これを証明するものは何もありません。蓮秀上人の生年は、文明十三年ということも考えられないことはないですが、文明十四年とみるのが妥当であろうと思います。

文明十四年の生まれなら、蓮秀上人は十一歳で父を亡くしたということになります。幼くして父を失ったということになります。文明十三年の生まれだとしても十二歳です。その後の蓮秀上人のこととして、興正寺の伝えでは、上人は翌年の明応二年(1493)三月に得度をしたのだとされています。蓮教上人の亡くなった延徳四年は七月に改元され明応元年になります。

興正寺では蓮秀上人の得度について、具体的に明応二年三月のことだといっていますが、これをそのまま信じることはできません。明応二年の上人の年齢は、十二歳、もしくは十三歳ですが、興正寺では蓮秀上人は文明十三年に生まれたとしているのであって、明応二年には十三歳ということになります。上人は十三歳になって得度したというのが興正寺の主張なのです。十三歳という年齢は成人としての目安となる年齢です。当時は、普通、十三歳ないし十五歳で元服しました。この明応二年との年次は、上人が十三歳で得度したとの想定がまずあって、そこから導かれた年次のように思われます。蓮秀上人は蓮教上人が亡くなったあとの興正寺を継いでいるのであり、明応二年ころに得度したことは疑いのないことですが、だからといって、それを明応二年の三月だと断定することはできません。

蓮秀上人の得度のこととしては、蓮如上人が蓮秀上人の得度関わっていることは間違いのないことです。蓮秀との法名も蓮如との法名から一字が採られたものです。蓮如上人はすでに本願寺の住持職を実如上人に譲っており、実如上人が本願寺住持ですが、実如上人ではなく蓮如上人が得度に関わっているのは、蓮如上人には蓮秀上人を後見していこうとする思いがあり、それで得度に関わったのだと思います。

(熊野恒陽 記)