「裏書 その一」

~興正寺門徒と書いた裏書~ 

蓮教上人が亡くなったあとは蓮秀上人が興正寺の住持の職を継ぎますが、この蓮秀上人の継職のころから、興正寺門徒と裏書に明記された絵像の方便法身尊像が下付されていくようになります。蓮教上人は延徳四年(1492)に亡くなります。延徳四年は七月に改元され明応元年となりますが、この明応年間となって、裏書に興正寺門徒と書いた絵像の方便法身尊像が下されていきます。明応年間に下された絵像の方便法身尊像はいくつかありますが、その一つとして伊勢国の阿弥陀寺に下されたものがあげられます。

大谷本願寺釈実如(花押)

明応二年癸丑八月廿六日

方便法身尊形 興正門徒勢州

桑名郡枡田庄

今津東西阿弥陀寺

願主 釈□□

これはその絵像の裏書です。明応二年(1493)に本願寺の実如上人が阿弥陀寺に下したことが分かります。下付を願った願主の名の部分は剥落しています。

この絵像を下された阿弥陀寺は伊勢北部に多くの末寺や道場をかかえていた有力な寺です。阿弥陀寺は興正寺の門下の寺のなかにあっても有力な寺でした。この寺はのちに寺号を改め、法盛寺と号します。法盛寺は、江戸時代に本願寺の一族が入寺するなど、伊勢でも別格の扱いをうけていた寺です。この阿弥陀寺は別に柳堂ともいわれます。柳堂は親鸞聖人が教化のため留まったとされる堂です。伝説では、親鸞聖人は関東から京都に戻る際、三河国の矢作の柳堂に留まって人びとを教化したのだとされています。三河にはその柳堂とされるものや、柳堂の跡を伝える寺というものがあります。法盛寺も柳堂の跡を伝えているのだといいます。法盛寺の伝えでは、寺はもと三河の矢作にあり、矢作から桑名に移ったのだとされています。法盛寺は、現在、本願寺派の寺で、三重県桑名市にあります。

明応二年に阿弥陀寺に興正寺門徒と書いた絵像の方便法身尊像が下されていますが、伊勢で明応年間に興正寺門徒と書いた絵像の方便法身尊像を下されたのは阿弥陀寺だけではありません。阿弥陀寺下の道場にも下されています。明応五年(1496)の五月二十日には員弁郡梅戸金井村の道場、明応五年の六月二日には朝明郡柿村の道場、明応五年七月九日には桑名郡益田庄三崎西町の道場に興正寺門徒と裏書に書いた方便法身尊像が下されています。金井村の道場の絵像は明善が願主となり、三崎西町の道場の絵像は賢正が願主となっています。金井村の道場は、現在、本願寺派の蓮成寺という寺になり、柿村の道場は大谷派の西光寺という寺になっています。

伊勢での裏書に興正寺門徒と書いた絵像の方便法身像の下付は、以後、時代とともに増えていきます。伊勢では明応年間に興正寺門徒と書いた絵像の下付がはじまり、以後も増加しながら下付されていったのです。

こうして明応年間に下付がはじまるのは伊勢に限ったことではありません。紀伊国でも興正寺門徒と書かれた絵像が下されています。紀伊で明応年間に絵像を下されているのは宮崎庄野村の法了の道場です。

大谷本願寺釈実如(花押)

明応二年癸丑八月廿九日

方便法身尊像 興正門徒真光寺下

紀伊国在田郡宮崎庄

野村

願主 釈法了

その絵像の裏書です。明応二年、真光寺下の法了の道場に下されています。この道場は、いまは本願寺派の光源寺という寺になっています。

紀伊ではこのほか、明応三年(1494)の七月九日に那賀郡小藤庄大垣内の道場、九月三日に海郡雑賀庄中嶋の道場、十二月に海郡浜中庄玉余魚川の道場、明応四年(1495)の正月に海郡仁義庄浅川の道場に絵像が下されています。中嶋の道場は妙慶、浅川の道場は了善が願主となっています。大垣内の道場は、現在、本願寺派の安楽寺となり、玉余魚川の道場は本願寺派の正光寺、中嶋の道場は本願寺派の専光寺、浅川の道場は本願寺派の浄善寺となっています。大垣内の道場、玉余魚川の道場、浅川の道場は真光寺下の道場であり、中嶋の道場は興正寺の末寺頭である堺の阿弥陀寺、すなわちのちの性応寺下の道場です。

紀伊でも興正寺門徒と書いた絵像の下付は明応年間となってはじまっているのです。

(熊野恒陽 記)