「裏書 その二」

~御坊の建立と絵像の下付~ 

伊勢国や紀伊国では明応年間(1492~1500)から興正寺門下に興正寺門徒と裏書に書いた絵像の方便法身尊像が下付されるようになります。伊勢では桑名の阿弥陀寺やその下の道場、紀伊では真光寺下の道場や堺阿弥陀寺下の道場に絵像が下されています。伊勢の阿弥陀寺はのち法盛寺となり、堺の阿弥陀寺はのち性応寺となります。性応寺は興正寺の末寺頭をつとめた寺です。この寺ははじめ堺にありましたが、堺から紀伊へと移り、明治になって鹿児島県へと移ります。

堺阿弥陀寺とともに紀伊に門下の道場をかかえていた真光寺は、和泉国の日根郡嘉祥寺浦に所在する寺です。真光寺は紀伊に多くの門下の道場をかかえていた寺です。江戸時代には、紀伊に四十箇寺ほど真光寺の末寺がありました。真光寺は和泉の嘉祥寺浦の寺ですが、真光寺ははやくからこの寺のほかに紀伊にも堂舎を設けており、やがてその紀伊の寺が真光寺の本寺となっていきます。これが、現在、和歌山市にある真光寺です。和歌山市の真光寺は、いまは本願寺派になっています。嘉祥寺浦の真光寺も本願寺派として大阪府泉南郡田尻町にあります。

真光寺の伝えでは、真光寺は楠正成の甥である和田源秀が開いたとされています。和田源秀は『太平記』などにも出てくる人物です。源秀は南朝方に属した武将で、南朝方の楠正行と北朝方の高師直が戦った貞和四年(1348)の四条縄手の合戦で討ち死にします。興正寺の古い末寺には南朝に属した武将が寺を開いたと伝えている寺が多くありますが、この真光寺もまた楠氏の一族である和田氏が寺を開いたと伝えています。

紀伊の真光寺下の道場には明応年間に興正寺門徒と裏書に書いた絵像の方便法身尊像が下付されていますが、それらの道場の本寺である真光寺にも明応年間に興正寺門徒と書いた絵像が下付されています。真光寺のものは絵像そのものが伝えられているわけではありませんが、その記録がのこされています。紀伊の真光寺下の道場では、明応二年(1493)の八月二十九日に在田郡宮崎庄野村の道場、明応三年の七月九日に南賀郡小藤庄大垣内の道場、明応三年十二月に海郡浜中庄玉余魚川の道場、明応四年の正月に海郡仁義庄浅川の道場に絵像が下されていますが、真光寺には明応五年十月十九日に絵像が下されています。願主の名は真法と記録されています。真光寺は門下の道場よりも遅くに下付されていることになりますが、真光寺に絵像が下されたのも明応年間のことです。和泉国でも絵像の下付は明応年間にはじまっているのです。

明応年間には、伊勢国、紀伊国、和泉国で興正寺門下の寺や道場に興正寺門徒と書いた絵像が下されたことになりますが、このほかの地域としては、山城国、大和国、尾張国でも明応年間に興正寺門徒と書いた絵像の下付がはじまります。興正寺門下への絵像の下付は明応年間となって一斉に行われるようになるのです。

こうして明応年間に絵像の下付がはじまるのは、本願寺の地方門末の支配ということと関係してのことと思われます。明応年間、本願寺は各地で御坊を建立したり、整備したりしています。御坊は本願寺の地方教化の拠点となるものです。

明応年間に建立された御坊としては、明応四年、大和国吉野郡の飯貝に本善寺、下市に願行寺が建立されています。本善寺は、当初、本光寺の寺号で建立されました。明応五年には摂津国東成郡生玉庄大坂に、のち大坂本願寺となる大坂御坊が建てられます。久宝寺御坊である河内国渋河郡久宝寺村の顕証寺も明応年間に建立されたと伝えられています。顕証寺の当初の寺号は西証寺です。堺御坊である信証院は明応以前からあったものですが、蓮如上人は山科本願寺建立の際、この信証院を山科に移して山科本願寺の寝殿としています。移築後、堺に再び信証院が建てられますが、信証院が再建されたのは明応三年ころといわれています。

明応年間、各地に御坊が建てられていますが、御坊を建て、維持するには門末の協力が必要です。明応年間に興正寺門徒と書いた絵像が下されはじめるのはこうした御坊の建立ということと関係しているものと思います。さらに御坊が建立されれば、本願寺の力はそれだけ広い範囲に及ぶことになり、本願寺と地域の門末との関係もより深いものとなります。絵像は本願寺との関係が深まったからこそ下されるものであり、明応年間に下付されるようになることには、御坊が建立され本願寺との関係が深まったということも、当然、大きく関係しているのだと思います。

(熊野恒陽 記)