「裏書 その三」

~本願寺の地方門末支配~ 

裏書に興正寺門徒と書いた絵像の方便法身尊像の下付は明応年間(1492~1500)になってはじまりますが、これについては、すでに江戸時代、本願寺の学僧である玄智が、興正寺門徒と書いた絵像は古いものでも明応二年(1493)か、三年のものだということをいっています。

紀州ノ如キ、鷺森配下三百余寺ノ内興門下百余寺アリ…
諸寺ノ御裏書ヲ撿スルニ明応二年三年ノ開基ヲ最初トス(『祖門旧事紀』)

紀伊では鷺森御坊配下の三百余箇寺のうち興正寺門下の寺が百余箇寺あるが、裏書を調べても、それらの寺の開基は明応二年か三年であると述べられています。要は、裏書に明応二年、明応三年と書かれていたということです。玄智は興正寺門徒と書いた絵像の下付が明応年間にはじまることに気づいていたのです。

明応年間に絵像が下されはじめるのは本願寺の地方門末支配ということと関係しているものと思われます。

明応年間、本願寺は各地に御坊を建立したり、整備したりしています。御坊は地方の門末と本願寺とを結ぶものであり、本願寺は御坊を介し各地に力を及ぼしていきます。本願寺は御坊を建てて地方門末の支配を強めますが、各地に御坊が建立されていく明応年間となって、絵像が下されるようになります。

明応四年(1495)、大和吉野の飯貝に御坊として本光寺、すなわちのちの本善寺が建立されます。この本善寺に関わるものとして、吉野には本善寺三僧と呼ばれる三つの寺があります。本善寺三僧は、本善寺を護持して、寺の運営にあたったのだといわれています。三僧といわれるのは西照寺、浄宗寺、大西寺の三箇寺ですが、このうち浄宗寺は興正寺の門下であった寺です。本善寺が建立されたころには了西という人物がおり、この了西の道場がのち浄宗寺となります。本善寺が建立されるのは明応四年のことですが、本願寺は明応四年の五月十六日にこの了西の道場に興正寺門徒と書いた絵像を下しています。了西への絵像の下付は明らかに本善寺の建立と関係しています。

明応年間ということでいえば、もとの興正寺の末寺には明応年間に寺が開かれたと伝えている寺が多くあります。これは寺の開基を御坊の建立と関連づけて説く寺が多いためです。たとえば大坂の御坊の建立は明応五年(1496)ですが、それらの寺ではこうした御坊の建立の年と関連づけて寺の開基を説いています。それとともに明応年間の開基を伝える寺が多いのは、明応年間に絵像が下されているということも要因となっています。実際に下された寺が明応年間の開基と伝えるのは当然ですが、下されていない寺でも周囲に明応年間の絵像がある寺はそれに関連づけて寺の開基を明応年間と伝えたりします。明応年間に絵像の下付がはじまることが各寺の寺伝にも影響しているのです。

興正寺門徒と書いた絵像の下付は明応年間にはじまりますが、それへの対応として、蓮如上人は近江国蒲生郡日野にあった興正寺という寺の寺号を改めています。日野の興正寺は荒木門徒の流れをくむ寺で、大きく発展していた寺です。この寺は山科の興正寺よりも早く本願寺の門下になっており、蓮教上人が本願寺に参入した時にはすでに興正寺と号していました。明応二年、この興正寺は二つの寺に分かれることになりますが、その際、蓮如上人は分かれた二つの寺にそれぞれ興敬寺、正崇寺との寺号を与えています。蓮如上人は興正寺の寺号を改め、分かれた二つの寺に興正寺とは違う寺号を与えているのです。これによって近江では興正寺との寺号は用いられなくなりました。日野興正寺の寺号が改められたのは明応二年のことですが、これは明応年間に興正寺門徒と書いた絵像の下付がはじまることと対応しているのだと思います。

日野興正寺の寺号を改めたのは蓮如上人ですが、これが興正寺門徒と書いた絵像の下付と対応するものであるなら、興正寺門徒と書いた絵像の下付が明応年間にはじまることには蓮如上人の意向も反映しているということになります。明応年間の蓮如上人による興正寺門徒と書いた絵像の下付としては、蓮如上人は明応二年閏四月八日に山城国久世郡上津屋郷の乗懃に絵像を下しています。明応年間に下付された興正寺門徒と書いた絵像はほとんどを実如上人が下していますが、蓮如上人が下すこともないわけではなかったのです。この乗懃ですが、乗懃は有力者であるとともに蓮如上人とも親しかったのだとみられます。乗懃の道場はのちに光瀬寺という寺になります。

(熊野恒陽 記)