「永正年間の興正寺」

~興正寺の社会的地位~ 

永正十七年(1520)十二月十八日、阿波国美馬郡郡里の安楽寺は、三好千熊丸から、もとの居住地への還住の許可と、還住した際には諸役を免除するとの免許状を与えられています。三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。免許状を与えた千熊丸は三好長慶のことだといわれています。長慶はのちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。安楽寺は所在地の領主から課役を免ぜられていることになりますが、この三好千熊丸の免許状は興正寺の口添えがあって発給されたものです。安楽寺はかつて興正寺の末寺であった寺です。

依興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、
諸公事等之儀指置申候、若違乱申方候ハヽ、則可有注進候(「安楽寺文書」)

三好千熊丸の免許状の一部です。興正寺殿からの口添えがあったと明記されています。永正十七年の興正寺の住持は蓮秀上人であり、この興正寺殿は蓮秀上人のことです。免許状の発給のかたちとしては、安楽寺から蓮秀上人に口添えの依頼があり、それによって蓮秀上人が三好千熊丸に安楽寺のことを申し入れて、その申し入れにより免許状が出されたものと思われます。末寺である安楽寺は本寺である興正寺を頼り、本寺の興正寺は末寺の安楽寺を保護しているのです。

永正十七年には興正寺は本願寺の傘下にあり、興正寺は興正寺の門徒とともに大きくは本願寺の教団に属しています。そうした状況でも、安楽寺は興正寺を頼っているのであり、興正寺は独自に末寺の安楽寺を保護しているのです。本願寺に属すといっても、興正寺とその門末はかなり自立性が高かったということがうかがえます。それとともに、三好氏の側が蓮秀上人の申し入れを聞きいれていることから、興正寺の社会的な地位も相当に高いものであったことが分かります。

社会的な立場ということでいえば、安楽寺もまた社会的な力を有していたことになります。安楽寺が地域社会に力をもつ存在であるからこそ、領主も免許状を与えているのです。力のない小さな道場であるなら、領主は免許状など与えません。この安楽寺について、讃岐国三木郡氷上の常光寺は、安楽寺の祖は常光寺の祖と一緒に四国に渡ったと伝えています。常光寺の伝えでは、常光寺の祖は和泉国の浄泉という者で、浄泉は佛光寺の門徒になり常光寺との寺号を与えられのだとされています。この浄泉の同族の者に秀善という者がいて、秀善も佛光寺の門徒になり安楽寺との寺号が与えられたのだといいます。この秀善が安楽寺の祖であるとされています。二人は応安元年(1368)、四国に渡り、常光寺と安楽寺を開いたのだといいます。

常光寺と安楽寺はともに多くの末寺を有した寺です。常光寺の伝えによるなら、常光寺と安楽寺はもとの佛光寺の末寺であり、それが興正寺の末寺となったことになりますが、この二箇寺が早くに開かれたことは確かで、佛光寺以来の末寺であるとみてよいと思います。

安楽寺には永正十七年に免許状が与えられていますが、この永正十七年の四月十二日、醍醐寺の厳助という僧が山科を訪れ、本願寺や興正寺を見てまわっています。厳助はその時の様子を書きとめていますが、興正寺はとても綺麗であったと記されています。

山科本願寺一見、庭座敷之躰驚目者也、
下妻大輔興正寺以下一覧、美麗超過云々(『永正十七年記』)

まさに安楽寺に免許状が下されたころの興正寺の様子です。山科では興正寺と本願寺は並んで建っており、興正寺と本願寺の関係にしても、本願寺は興正寺を重んじ、興正寺を格別に扱っていました。興正寺が格別に扱われていたことは山科本願寺の報恩講の行事からもうかがえます。

廿五日ノ朝□□興正寺殿ナイチンへ御参候テ御ツトメ御沙汰候
(『永正十七年元旦ヨリ儀式』)

報恩講期間中の十一月二十五日の朝、興正寺が内陣で勤行をつとめるのだと述べられています。この記事が書かれる『永正十七年元旦ヨリ儀式』は山科本願寺の年中行事を記した書です。山科本願寺では毎年、十一月二十五日の朝に興正寺が勤行を行なっていたのです。この二十五日朝の勤行は山科で行われていたことが確認できますが、のちの本願寺の所在地である大坂では行われていたことが確認できなくなります。二十五日の興正寺の勤行は本願寺の御影堂で行われるものです。明らかに特別な勤行であり、興正寺が格別な扱いをうけていたことがうかがえます。

(熊野恒陽 記)