「興正寺の力」

~宗永の高野山参詣の旅を調える~ 

醍醐寺の僧、厳助は大永三年(1523)閏三月三日、高野山参詣の旅に出ています。醍醐寺理性院の宗永僧正の高野山参詣に同行したものです。道中の記録は厳助が著した『永正記』にのこされています。厳助は永正十七年(1516)、山科を訪れ、本願寺や興正寺を見てまわった僧です。厳助は蓮秀上人と親しかったようです。この宗永、厳助たち一行の高野山参詣の旅を調えたのは蓮秀上人です。

『永正記』によると、一行が醍醐寺を出たのは三日の早朝です。興正寺から案内の者がつかわされ、一行と同道しました。醍醐寺からは徒歩で伏見坂に向かい、伏見坂からは舟に乗っています。淀川を下っているのです。途中で舟を乗り換え、小坂に着いています。小坂はのちの大坂のことです。小坂にはのちに大坂本願寺となる御坊がありました。一行はこの小坂で一泊します。小坂では興正寺門徒が一行を接待しました。

山科興正寺門徒儲一献、種々奔走儀也

四日は小坂から、天王寺、住吉を経て堺に至っています。堺では墨屋という屋号の家に泊りました。この墨屋は興正寺門徒です。墨屋は屋号を号していますが、坊主でもありました。墨屋の坊主としての格は高く、古くから寺号を称しているような有力な坊主と同格に扱われていましたし、墨屋下の道場もありました。同道した案内の者の宿は阿弥陀寺に申しつけ、阿弥陀寺の了珍が世話をしたと記されています。堺の阿弥陀寺はのちの性応寺のことです。

五日は堺から船に乗っています。興正寺からつかわされた案内の者はこの堺で帰り、堺からは阿弥陀寺の了珍が一行と同道しました。この日は加太で一泊し、六日は加太から船で雑賀に向かっています。雑賀では興正寺門徒の了道の道場に一泊しました。この了道の道場はのちの円明寺のことだと思われます。円明寺は明応三年(1494)、了道が居宅を道場にしたと伝えています。円明寺の所在地は紀伊国海部郡雑賀庄関戸です。円明寺の伝えでは先祖は雑賀庄の地頭で、雑賀太郎と称したといいます。円明寺の住職は雑賀を姓としています。円明寺の祖が雑賀の有力な門徒であったことは確かなようです。この円明寺は性応寺の末寺です。もとは堺の阿弥陀寺の末寺であったということであり、了道の道場が一行の宿となったのは、阿弥陀寺が手配したものということになります。

七日は雑賀から船に乗り、紀三井寺、藤代などを見て、切里の孫六大夫の所に泊っています。孫六大夫は興正寺門徒で、とても親切であったと記されています。

切里孫六大夫所一宿、同興正寺門徒也、家主懇切無極沙汰也

切里とありますが、この切というのは、紀伊国名草郡の地名である吉礼のことだと思われます。切と吉礼は音が通じています。名草郡吉礼には浄徳寺という寺がありますが、この浄徳寺の祖は孫六大夫と名乗っていました(「本願寺文書」)。切里の孫大夫の道場はのちの浄徳寺のことになります。この浄徳寺は性応寺の末寺です。切里の孫大夫の道場も阿弥陀寺の手配で一行の宿になったものと思われます。阿弥陀寺の了珍はこの吉礼の里まで一行と同行しています。

八日は馬に乗って吉礼を出発しています。馬には宗永と厳助の二人だけが乗りました。阿弥陀寺の了珍はここで一行と別れ、帰りました。この日、一行は根来寺、粉河寺を見て、坂本に泊りました。

九日は坂本を出て、そのまま高野山に到りました。一行はこの九日と、翌十日を高野山で過ごしています。高野山では諸堂を拝し、建物などを見てまわりました。

一行は十一日に高野山を出て、その日は五條に泊り、十二日は五條から吉野に至り、吉野に泊りました。

十三日は吉野から多武峯に向かっています。多武峯寺を見て、この日は南山の千代石の宿所に泊っています。興正寺からの許状を示したところ、宿の主は崇敬することきわまりなかったと記されています。

南山ノ千代石所一宿、依興正寺許状、亭主崇敬無極者也

この後、一行は奈良をまわり、十五日に醍醐寺に帰っています。

この宗永、厳助の高野山参詣はまさに蓮秀上人の力添えによってなされたものです。興正寺の力は門末を介して各地に及ぶのであり、宗永、厳助もその力を借りたのです。興正寺の門末はひろく各地に存在するのであって、門末の数からするなら、興正寺の力は相当に大きなものだということができます。

(熊野恒陽 記)