「山科末寺」

~本願寺の末寺としての利益~ 

蓮秀上人の代の興正寺は、本願寺の傘下に属しながらも、かなり自立的な存在でした。興正寺は社会的な地位もあり、それに見合った実力もそなえていましたし、門下も本寺である興正寺を頼り、興正寺も門下を保護していました。興正寺の門徒団は、門徒団としてのまとまりを保っていたのです。

もとより興正寺の門徒団が自立的だといっても、興正寺門徒が本願寺と関係しなかったということではありません。興正寺の門徒団も大きくは本願寺の傘下に属しているのであり、本願寺に属しているということで利益を得るということもありました。

本願寺に属していることで得られる利益はいろいろとありましたが、興正寺の末寺であった但馬国城崎郡城崎村の光妙寺という寺は、本願寺に属しているということで但馬国の守護から課役などを免除するとの免許状を得ています。

但州山科末寺事、本寺無等閑事候間、諸公事課役免除儀、得其意上者、可為諸色節守護使不入地、然間於相当儀者、直可申出者也、恐々謹言

大永六

八月九日 尭威(花押)

本願寺末寺中(「光行寺文書」

光妙寺に伝えられた免許状です。光妙寺は江戸時代に寺号を光行寺と改め、以後は光行寺と号しています。光妙寺の免許状はそのままこの光行寺に伝えられています。光行寺は現在の兵庫県豊岡市にあります。

この光妙寺の免許状は、大永六年(1526)、尭威こと山名誠豊が発給したものです。宛所は光妙寺ではなく、本願寺末寺中となっています。免許状は本願寺末寺に対し出されたものであって、山名誠豊は但馬国内の本願寺の末寺の課役などを免除したということになります。光妙寺も本願寺の末寺としてこの免許状を得ているのです。

この免状状にいわれているのは但馬国の本願寺末寺は課役などを免除するということですが、ならば本願寺の末寺は本願寺の末寺であるということだけで課役などを免除されたということになります。本願寺の末寺にとって、これは極めて有利なことです。光妙寺は興正寺の末寺ですが、大きくは本願寺の末寺だということで課役などを免除されていたのです。

この光妙寺のある但馬は興正寺の末寺が多かった地域です。但馬の古い真宗寺院はほとんどが興正寺の末寺であり、但馬の真宗は興正寺の末寺を中心にひろがっていったともいえます。光妙寺はそのなかでも有力な寺でしたが、このほかの有力な但馬の興正寺の末寺としては、福成寺、金蔵寺があります。福成寺は豊岡市の出石町、金蔵寺は朝来市の生野町にある寺です。いずれも古い寺です。

これらの但馬の興正寺の末寺は互いに深く関わりあっていて、興正寺門徒としてのまとまりを保っていました。但馬の興正寺門徒が互いに関わりあっていたことは、但馬に下された本願寺の下付物からもうかがうことができます。但馬の興正寺の末寺には天文八年(一五三九)八月二十六日に絵像の親鸞聖人の御影が下されていますが、この御影は一つの寺に対して下されたものではなく、但馬の興正寺の末寺の共同のものとして下されています。下付された末寺の方でも、この御影を共同で護持していました。福成寺の伝えによると、福成寺、光妙寺、金蔵寺の三箇寺が一月のうち十日ずつ給仕するというかたちでこの御影を護持したのだといいます。護持の仕方には途中で変化もあったようですが、一つの御影を共同で護持するという、こうした護持の仕方は御影の下付からおよそ五十年にわたって続きました。互いに深く関わりあっていたからこそ、こうした護持の仕方が採られたのだといえます。

光妙寺には大永六年に本願寺の末寺であるということで課役などを免除するという免許状が与えられていますが、免許状が与えられた大永六年の本願寺住持は証如上人です。本願寺の住持職は蓮如上人ののち、実如上人、証如上人と継がれていきます。実如上人は蓮如上人の子であり、証如上人は実如上人の孫です。実如上人は大永五年に亡くなり、証如上人が本願寺を継ぎますが、その時、証如上人はわずか十歳でした。免許状が与えられた大永六年には証如上人は十一歳です。

本願寺は蓮如上人の代に大きく発展しますが、以後の実如上人、証如上人の代にあってもさらに発展していきます。武家や公家との交流も深まりますし、経済的にも大きな力をもつようになります。山名誠豊もそうした本願寺に配慮して、本願寺末寺の課役などを免除するとの免許状を与えているのです。

(熊野恒陽 記)