「山科寺内」

~進んだ知識や技術が集まる場~ 

蓮如上人による山科本願寺の建立以降、本願寺は山科にあって大きく発展していきます。それとともに山科の地もまた寺内町として大いに栄えていきました。

山科本願寺の堂舎は文明十五年(1483)に完成します。文明十年から工事が始まり足かけ六年で完成したものです。この本願寺の堂舎は天文元年(1532)に焼失します。この時、寺内町も本願寺とともに町ごと焼けてしまいます。公家の鷲尾隆康の日記には山科本願寺と寺内町が焼けた時のことが記されていますが、そのなか隆康は寺内町の様子を、住人は裕福で家屋も奇麗だと述べています。

抑本願寺者、及四五代富貴誇栄花、寺中広太無辺、荘厳只如仏国云々、
在家又不異洛中也、居住之者、各富貴、仍家々耆、随分美麗云々(『二水記』)

本願寺は富み栄え、寺中も広く、仏国のようだと記されています。そして、寺内町の様子は、寺内に建っている家屋は京都の市街地の家屋と異なるところはなく、住人は裕福で家も奇麗だと記されています。山科の寺内町が栄えていた様子がうかがえます。

この山科の寺内町は内部が土塁と堀で三つの区域に分けられていて、町の周囲もまた土塁と堀で囲まれていました。土塁と堀で分けられていたのは、本願寺の境内にあたる区域と、内寺内、外寺内といわれる三つの区域です。本願寺は町の西側に建っていて、その北側、東側、南側に町がひろがり、そこが内寺内、この内寺内の北東側にさらに町がひろがっていて、そこが外寺内といわれる区域です。この内寺内、外寺内といわれる区域に人びとが住んでいました。

山科の寺内町には家屋が建ち並び大いに栄えましたが、山科の寺内町は段階的に発展していったもので、本願寺の堂舎の建立の当初からこうした寺内町があったわけではありません。本願寺は蓮如上人から、実如上人、証如上人と継がれていきますが、蓮如上人の存命中には山科の寺内町はそれほど大きくはなかったといわれています。寺内町に人びとが集まり、町がひろがっていったのは、蓮如上人の次代の実如上人の時代だと考えられています。山科寺内町の土塁や堀も実如上人の時代に設けられたものだといいます。

土塁や堀は防御のため設けられたものですが、山科寺内町の土塁はまっすぐに造られずに、突き出た部分があったり、折れ曲がった所があったりします。これは意図的にそう造られたものです。こうした構造は城にみられるもので、こうした構造を、折れ、といいます。折れは防御のため設けられたもので、敵が近づいてきた場合、土塁がまっすぐだと敵を正面から迎撃することしかできませんが、折れ曲がった所や、突き出た部分があると、そこに立てば近づく敵を側面から攻めることができます。側面からの攻撃を横矢といいますが、山科の寺内町の場合は、出入り口の脇の土塁が突き出たように造られていて、出入り口に近づく敵に横矢をかけることができる構造になっています。こういった構造の城は一般に十六世紀の半ば以降にみられるようになるといわれています。山科の寺内町の土塁は何度か改修されたようで、横矢がかけられる構造を採るようになったのは山科本願寺が焼失する直前のこととも考えられていますが、それでも一般に普及する前からこうした構造を採っていたことになります。山科の寺内町が、人びとが集まるとともに、進んだ知識や技術がもち込まれる場であったことが分かります。

山科の寺内町は川の流れにより石や砂が堆積した扇状地に町がひろがっています。扇状地は石や砂が多く水はけはよいのですが、水がしみ込んでしまって水田にはしにくい地です。山科本願寺は山科のなかの野村という地名の所に建立されますが、この野村の名は野原の野に由来するものであって、野村の地は水田などのない、まさに野原であったのだと考えられています。山科本願寺はもともと山科に住んでいた人たちからの反対もなく建立されますし、寺内町の領域もまわり人びとの反対もなくひろげられていきますが、これも野原であったからこそ反対がなかったのだと思われます。

山科では興正寺は本願寺の南側に建っていました。本願寺の南に一つの区画が設けられ、その区画内に興正寺が建っていたのです。興正寺の門下の人びともそこに集まり住んでいました。興正寺の南側には東西に大きな堀が掘られていました。山科寺内町には寺内の水を外に排出する水落といわれる所があったことが知られていますが、その水落もこの興正寺の南側にあたる場所にあったのだとみられています。

(熊野恒陽 記)