「興正寺建立 その二」

~山科の地はどのように入手したのか~

了源上人が興正寺の建立のためにとった手だては勧進であり、有縁無縁の人たちの喜捨のもと興正寺の堂舎が建てられます。有力な貴族や武士が壇越となって寺を建立する場合をのぞき、勧進は通常の堂舎の造立におこなわれており、由緒ある仏像の堂舎建立などには、仏像の霊験や功徳を説いて、ひろく喜捨をもとめました。

まさに一紙半銭をあおぐわけで、短い期間で勧進を終えるものもあれば、長い年月をかけて勧進をつづけることもありました。上人は念仏の道場をもうけ得脱の道をもとめるべきだと、堂舎建立の必要性をうったえ、勧進をおこなっています。

カナラスコノ善ニクミシテ、
アルヒハ自身ノ 逆修(ぎゃくしゅう)ニ 擬(こら)シ、
コトニソノチカラヲアハセテ、アルヒハ亡魂ノ追福ニ資セヨ、
ナカク念仏勤修ノ浄場トシテ、諸人得脱ノ覚路ヲトフラフヘキモノナリ(勧進帳)

この堂舎建立の善行にあずかって、あるいはそれを自身没後のための 預修(よしゅう) とし、また、この堂舎建立に力をそえて、あるいはそれを亡魂の追福のたすけとせよ。この堂舎を長く念仏の道場として、人びとは得脱の道をもとめるべきである。

堂舎建立の地とされたのは 山科(やましな) で、勧進帳には「コヽ 雍州(ようしゅう) ニ山科ノホトリニ一所ノ霊地アリ、ケタシ無双ノ勝境ナリ…仍(よって)コノ名区ニツイテ梵閣ヲカマヘントオモフ」と記されます。

山科に霊地があり、そこに堂舎を建てたいと述べられていますが、これは山科の霊地を今後手にいれ、そこに堂舎を建てたいというのではなく、山科の土地はすでに準備されていて、その土地に堂舎を建てたいといっているのだと解されます。

だとすると、上人は勧進をはじめる前から山科に地所を得ていたことになります。上人はもともと関東の人ですから、当初から山科に土地をもっていたとは考えがたく、この地は京都に移住したのちに得たものとみられますが、武士につかえる 中間(ちゅうげん)だとされる上人が京都に移住してすぐに地所を得ているのも不思議な感じがします。

おそらくこの土地は上人の主人である 比留維広(ひるこれひろ)の援助をうけて得たものであって、維広の協力のもと買いとったものか、元来、維広が権利をもっていた土地に上人が使用権を与えられたものとみられます。そうでなければ、たやすく地所を得ることはできなかったと思います。

「山科ノホトリ」といわれるこの土地がはたして山科のどこにあったのかは定かではありません。佛光寺では現在の京都市山科区 東野百拍子町(ひがしのひゃくひょうしちょう)をその旧跡地としていて、同地には「佛光寺旧址」と書かれた石碑が建てられていますが、この石碑が建てられたのは大正六年のことで、伝承をもとに同地を一応の旧跡の地にみたて建てたもののようです。

実際には、百拍子町の北西にあたる 西野(にしの)から 厨子奥(ずしおく)といわれる地域周辺にこの土地があったのではないかと考えられますが、それにしても断定することはできません。山科にあった興正寺については、ふるくよりただ山科興正寺と呼ばれるだけですので、山科という以外、はやくからその所在地もわからなくなっていたのだと思います。

実のところ、上人がいつ勧進を終え、山科に堂舎を建てたのかもはっきりとはわかっていません。そのため興正寺建立の年については、勧進をはじめた年を建立の年にあてたり、その後の数年のうちのある年を建立の年にあてたりとさまざまに説かれてきました。

上人が勧進をはじめてから三年後には山科に建物が建っていたことは確実で、存覚上人がそこをおとずれたことが記録にのこされています(存覚一期記)。了源上人は勧進帳に一宇の小堂を建てたいと記していて、大きな建造物を建てようとしていたのではありませんから、そのころまでには、あらあら造作もすんでいたようです。

小堂とはいっても、寺号を称する寺であることからみて、庵室のようなものではなく、それなりの規模はあったはずで、いつできたというより、数年にわたって造作をかさねつづけたというのが実状だろうと思います。

こうして造作された堂舎に上人がかねてあがめていた阿弥陀如来像と聖徳太子像が安置され、聖徳太子にちなんで興正寺の寺号を称しますが、『存覚一期記』には興正寺との寺号は本願寺の覚如上人がつけた寺号だと記されています。これは了源上人が覚如上人に依頼し、形式上の名付け親になってもらったということであろうと思われます。

(熊野恒陽 記)