「大坂興正寺」

~近江日野に滞在してから大坂へ~ 

山科寺内町は天文元年(1532)八月二十四日、細川晴元、足利義晴、六角定頼配下の諸勢や法華衆徒に攻められ焼亡します。山科寺内町の焼亡後、本願寺は拠点を大坂の坊舎に移します。山科本願寺が焼かれたからといって、細川晴元と本願寺との戦いが終わったわけではありません。晴元と本願寺との戦いは大坂に場所を移し、続きます。

九月には山城の山崎で合戦があり、十二月には摂津で戦闘があって、富田の坊舎、すなわち教行寺が焼かれます。この時には摂津で多くの道場が焼かれました。

天文二年(1533)となっても、正月に摂津の尼崎、二月に堺でと戦いが続きます。五月には敵は大坂の坊舎に迫り、坊舎の近くでも戦闘が起こります。

大坂の坊舎への細川晴元勢の攻撃はその後も続きましたが、六月、晴元は、一旦、本願寺と和睦します。細川晴元はかねてから一族の細川晴国と争っていましたが、晴元方と晴国方とが京都の高尾で戦い、晴元方が敗れたためです。晴元はこの戦いで重臣を失いました。和睦ののち晴元方との大規模な戦闘はみられなくなります。本願寺伝来の親鸞聖人御影もこの和睦の期間中に大坂に移されます。御影が大坂の坊舎に移ったのは天文二年七月二十五日のことです。御影が移されたことで、大坂の坊舎が実質的に本願寺となります。

蓮秀上人が大坂に移るのもこの和睦の期間中のことです。蓮秀上人は天文二年八月に大坂へと移りました。蓮秀上人は大坂に移るまでは近江国蒲生郡の日野にいたようです。江戸時代に著された『真宗故実伝来鈔』という書に、山科本願寺焼失の際に興正寺も同時に焼け興正寺住持は近江の日野に移ったという記述がみられます。この日野に移ったというのは事実なのだと思います。日野に関しては、蓮教上人の妻で、蓮秀上人の母である恵光尼が山科興正寺の焼失後に近江の日野で亡くなったとの伝承が伝えられています。恵光尼は山科興正寺が焼失した天文元年のうちに亡くなったのだといいます(「興正寺文書」)。恵光尼が日野で亡くなったというのと、『真宗故実伝来鈔』とは、それぞれ別に伝えられた伝承です。蓮秀上人は母の恵光尼をはじめ、家族とともに日野に移り、その日野で母の恵光尼が亡くなったということなのだと思います。

蓮秀上人が大坂に移った際には、蓮秀上人は証如上人に詫言状を出して大坂へと移っています。

興正寺ヨリ詫言状来。其返事代コウ也

実従の日記である『私心記』の天文二年八月十四日条です。実従は蓮如上人の末子で、山科本願寺の焼失後、親鸞聖人の御影を守っていた人です。御影を大坂へと移したのも実従であり、御影が大坂に移ってからは実従もまた大坂にとどまります。

蓮秀上人が詫言状を出しているのは、蓮秀上人が証如上人の勘気をこうむっていたからです。勘気の原因は必ずしもはっきりとはしませんが、一般には山科寺内町の焼亡が原因だといわれています。山科寺内町が焼けた時には証如上人は大坂におり、山科寺内町は証如上人の留守中に焼けてしまいます。蓮秀上人は、興正寺が本願寺とともに山科に建っていることからも、山科を守る立場にあり、それで責任を問われたということなのだと思います。

蓮秀上人は詫言状を出してはいますが、この時には証如上人の許しはえられませんでした。蓮秀上人が許されるのはこののちしばらく経ってからです。もっとも、許しをえていないとはいえ、蓮秀上人は詫言状の提出後、そのまま大坂に住んでいますし、証如上人に招かれて、証如上人や本願寺一族などによる話し合いに加わったりしています。勘気をこうむっているといっても、それは表立った行動はしないというほどのことであったようです。

蓮秀上人が住んだのは、大坂にあった興正寺の坊舎です。以後はこの大坂の坊舎があらたな興正寺となります。山科寺内町の焼失後、本願寺は大坂に移りますが、興正寺もまた大坂へと移ったのです。大坂は蓮如上人が坊舎を建立して以来、次第に発展していき、本願寺が大坂に移る前から、すでに大きな寺内町ができていました。興正寺の坊舎もこの大坂寺内町に建てられていました。興正寺では、古くより山科興正寺の焼失後、興正寺は天満に移ったと伝えてきていますが、実際に興正寺が移ったのは天満ではなく、大坂です。

蓮秀上人が大坂に移ったのは晴元との和睦が成立していた間のことですが、その和睦もやがて破られます。晴元との戦いはさらに続きます。

(熊野恒陽 記)