「紀伊在国」

~畠山稙長との交渉~ 

山科寺内町の焼亡後、細川晴元と本願寺との戦いは場所を大坂へと移して続きましたが、天文二年(1533)六月、細川晴元は、一旦、本願寺と和睦します。

しかし、この晴元との和睦も天文三年の五月に破られます。もっとも、和睦していたとはいっても、その間、晴元勢との戦闘がなかったというわけではありません。大規模な戦闘はみられなくとも、小さな戦闘は続いていました。天文三年の三月には晴元方の木沢長政勢は大坂に近い、高津、渡辺を攻め、火を放っています。和睦はいつ破られもおかしくない状況でした。

和睦が破られてからは畿内の各地で戦闘が続きます。天文三年以降、武士のうちにも一揆勢に与する者が出てきて、戦いはより大規模なものとなっていきました。

蓮秀上人が証如上人の勘気を解かれるのは天文三年の十一月のことです。和睦が破られてからのこととなります。蓮秀上人は天文二年八月以来、大坂に住み、証如上人や本願寺の一族とも交流していましたが、証如上人の勘気は正式には解かれていませんでした。

興正寺詫言候間、免候(『私心記』)

蓮秀上人は十一月二十八日、すなわち親鸞聖人のご正忌の日をもって、正式に許されます。そして、一月後の十二月二十八日、蓮秀上人は紀伊に下ります。

態一筆取向候、仍おの〱申合られ、急度上洛候ハバ、喜入候べく候、
為其興正寺差下候、あなかしこ〱

十二月廿一日  証如(花押)

紀州惣門徒中へ(「葛本文書」)

紀州惣門徒中宛ての証如上人の消息です。蓮秀上人が紀伊に下る際、たずさえたものです。紀州門徒に大坂に上ることを求めています。上洛とは京都に上ることですが、ここでは大坂に上ることを上洛といっています。畿内では戦闘が続き、門徒衆も疲弊しています。証如上人は紀伊の門徒衆に期待をかけたのです。紀伊は興正寺門徒の多くいた地です。証如上人は蓮秀上人を介することで、より多くの動員を期待したようです。

この後、蓮秀上人は天文四年六月末までのおよそ半年を紀伊で過ごします。単に消息の使者として下ったのなら、あまりに長い滞在です。

紀伊滞在中、蓮秀上人は、こうの宮という神社の社家衆が居住地に還住できるようにとりはからっています。天文五年となって、社家衆は礼のため大坂の興正寺を訪れています。

紀州こうの宮社家衆、去年興正寺在国之時節、還住之儀、惣中へ申調られ候、
其礼として・・・興正寺方へのぼり候(『天文日記』)

蓮秀上人が惣中へ働きかけて、還住させたとあります。こうの宮の社家衆の還住については証如上人の消息のなかにも、これに触れたものがみられます。

仍各こう宮へ可被取懸造意候由其聞候、於事実者時分柄近比不可然之儀候、
特牢人衆還住之儀、尾州へ申談半候処ニ被相破候ヘバ、
無其曲、善悪一途之儀可申下之間者堪忍可悦入候(「端坊文書」)

三月二十日付けで、紀州惣門徒中に宛てられた消息です。証如上人はここで、こう宮に対して悪事を企てていると聞いているが、そうであるならそれは不当なことだといっています。続けて、居住地を追われた牢人の還住については尾州と話し合っているところであり、悪事を企てるのなら、その甲斐もなくなると述べられています。証如上人は牢人が還住することを希望しているのです。こう宮に対し悪事を企てるとは、こう宮の社家衆の還住を阻止しようとしているというであり、証如上人はそれをいさめているということになります。還住を阻止しようとしているのは門徒衆です。

牢人の還住については尾州と話し合っているとありますが、本来、還住を希望しているのはこの尾州です。証如上人は尾州の意をうけ、門徒衆をいさめているのです。尾州とは紀伊の畠山稙長のことです。稙長は紀伊の守護だった人です。稙長の官職名は尾張守です。

証如上人が消息でいさめているのに対し、こうの宮の社家衆の還住を現地でとりはからったのが蓮秀上人です。蓮秀上人にしても稙長の意をうけて還住に協力したものとみられます。稙長の意向が重んじられたのは、稙長が本願寺に味方していたからです。稙長は細川晴元と対立し、そこから逆に本願寺に味方しました。

稙長は紀伊に大きな力をもった武将です。蓮秀上人が紀伊に下ったのは、単に消息の使者として下ったのではなく、この畠山稙長とさまざまな交渉をすすめるためであったのだと思います。

(熊野恒陽 記)