「行事」

~一家衆としてさまざまな行事に参加した~ 

蓮秀上人は天文四年(1535)十二月十八日、本願寺の一家衆になります。以後、蓮秀上人は一家衆として遇せられ、本願寺の行事に一家衆として参加することになります。本願寺では各種の行事が催されており、一家衆はそれらの行事に参加しました。

本願寺で催された行事はさまざまです。行事には本願寺が寺として行なう行事ばかりでなく、本願寺の住持の家が家として行なう行事もありました。

本願寺が寺として行なう行事としては、十一月の報恩講をはじめ、覚如上人や蓮如上人など本願寺歴代住持の祥月の忌日の勤行、それに、毎月の親鸞聖人の忌日と本願寺前住持の忌日の勤行があります。前住持の忌日の勤行は、その時の住持の前代にあたる住持の忌日の勤めで、代が替われば前代にあたる住持もまた替わっていきます。証如上人の代には実如上人が前住持であり、実如上人の忌日、二月二日に合わせ、毎月の二日に勤行が行なわれました。このほかには、春秋の彼岸会や盂蘭盆会なども行なわれていました。

本願寺の住持の家が行なう行事としては、正月の各種の行事や、人日、上巳、端午、七夕、重陽などの節句の祝い、それに七月の生御霊、八月の八朔、十月の亥の子祝いや、十二月の年越しといったものがあります。このほかには、花見や明月の祝いなども行なわれました。これらの住持の家が行なう行事と本願寺が寺として行なう行事を合わせると、行事はかなりの数となります。一家衆はそのすべてに参加したわけではありませんが、このうちの多くの行事に参加しました。

蓮秀上人が一家衆になったあとすぐに行なわれた行事としては、天文五年(1536)二月二日の実如上人の忌日の勤行がありますが、蓮秀上人はこの勤行に一家衆として加わっています。勤行にともなって斎が催されていますが、蓮秀上人がその斎に一家衆として参加したことが確認できます。

今日之斎之相伴、光応寺、左衛門督、顕証寺、願証寺…
西光寺、興正寺、一家以上十四人也、相伴坊主衆、当山六人之衆、
興善寺、柳堂、浄土寺…已上廿八人(『天文日記』)

斎には光応寺以下、興正寺までの十四人の一家衆と、二十八人の坊主衆が相伴したとあります。光応寺とあるのは蓮如上人の子である蓮淳のことです。証如上人の母、慶寿院はこの蓮淳の娘であり、蓮淳は証如上人の外祖父にあたります。この時代の本願寺住持の一族のなかで、もっとも力をもっていたのはこの蓮淳です。

実如上人の忌日の勤行は本願寺の寺としての行事ですが、このほか蓮秀上人は本願寺住持の家が行なう行事にも参加するようになります。住持の家の行事としては、毎年七月に生御霊の行事が行なわれていますが、蓮秀上人はほぼ毎年この生御霊に参加しています。

如佳例生御霊調之候、汁三ツ菜六菓子五種、
刑部卿、興正寺にハ亭にて上野相伴也(『天文日記』)

生御霊として汁三菜六菓子五種の膳を調え、刑部卿、興正寺がそれを亭で食したとあります。

生御霊は盆に存命中の父母に食べ物を供するという行事です。出された膳そのものも生御霊といわれます。一般には生見玉と表記されます。

本来、生御霊は存命中の者の霊の力を強めるために行なわれたものです。盆には祖先の霊が帰ってくるとされ、その供養がなされますが、これに対し、存命中の者の霊をもてなすのが生御霊です。

この生御霊は当時の公家の社会では普通に行なわれていたものです。親に膳を供するとともに、参加者も一緒に膳を食しました。生御霊には息子や娘だけではなく、一族の者や親しい者も参加しました。

証如上人が生御霊を行なっているのも存命中の母親のためであり、母親に食事が供せられています。

如佳例、大方殿へ為生御霊朝飯候、仍汁三菜六也、
興正寺、恵光寺於亭被食之也(『天文日記』)

大方殿は証如上人の母の慶寿院を指しています。例年の通り、汁三菜六の膳を生御霊として慶寿院に供したとあります。蓮秀上人もその膳を食しているのです。

本願寺ではさまざまな行事が行なわれましたが、これら一連の行事に加え、本願寺では末寺の住持や門徒が斎を催すということも行なわれました。これは末寺の住持や門徒が親族の忌日などに斎を調え、それを証如上人や一家衆、坊主衆に振る舞うというものです。末寺の住持や門徒の願いにより、その都度、行なわれました。本願寺ではこうした斎が頻繁に催されており、蓮秀上人もしばしば招かれています。

(熊野恒陽 記)