「山科興正寺」

~勤行は正信偈と和讃五首~

了源上人がいつ勧進を終え、山科に興正寺を建立したのかは正確にはわかっていませんが、江戸時代には一般に山科に興正寺が建立されたのは正中元年(1324)のことだといわれていました。

この年ならば、興正寺が建立されたのは上人が勧進をはじめてから三年後のことになります。興正寺の建立を正中元年とするのは『存覚一期記』にもとづく説で、同書の正中元年条に存覚上人が山科興正寺で供養の導師をしたとの記述があり、そこから興正寺の建立を同年のこととしています。

しかし、この供養というものが寺を建立したことの供養なのかどうかがはっきりとしません。寺を建立した際のもののようにも解されますが、『存覚一期記』の前年条には了源上人が山科に建てた寺を存覚上人がおとずれたとの記述があって、すでに寺は建っていたようですし、供養がおこなわれたというのも八月の彼岸の日で、供養は単に彼岸会の供養のようにも思われます。

このあたり『存覚一期記』の既述があいまいで、正確なことを知ることができません。ただ、正中元年条には興正寺との寺号は本願寺の覚如上人がつけた寺号だと寺号についての言及があり、興正寺との寺号を称したのはあるいはこの年なのかもしれません。

了源上人がはじめて大谷の廟堂をおとずれた時、上人は存覚上人に対して自分は門徒といっても法門のことは存知していないといったといいますが、それと前後して、堂舎建立の勧進をはじめ、寺を開いているのですから、法門のことを知らないはずはなく、むしろよく知っていたというべきでしょう。

上人は興正寺の第三世とされる了海上人のもとにも数年のあいだたびたび通ったといっており、関東でふかく教えを受けていたのだと思います(一味和合契約状)。ことに作法などは関東の風儀を身につけていたとみられます。おのずから上人在世中の興正寺もいわば関東風で、当初から京都で展開していった本願寺などとはちがった風儀が伝えられていたと思われます。

了源上人の師である明光上人や、その師である誓海上人は興正寺が開かれた時にも健在で、鎌倉に住む両上人と京都の了源上人との交流は、その後もかわらずにつづいていました。こうした交流からも興正寺に関東の風儀がもたらされたであろうと思います。

特徴的なのは正信偈と和讃を読誦していたことで、了源上人は明光上人より教えられ正信偈と和讃を読誦するのだと述べています。

六時ノツトメヲハフキテ三時トナシ、
光明寺和尚ノ礼讃ニカヘテ正信念仏偈等ヲ諷誦セシメタマヘリ、
マタ念仏ノモノウカラムトキハ和讃ヲ引声シテ五首マタ七首ヲモ諷誦セシメタマヘリト先師明光ヨリウケタマハリキ(算頭録)

一日六度の勤めを三度とし、善導の往生礼讃にかえて正信偈などを読誦せよ。また念仏がおっくうな時は和讃を五首か七首誦せよと明光からうけたまわった。

普通、正信偈と和讃の読誦は本願寺の蓮如上人が採り入れたものだといわれますが、興正寺では了源上人の時代から読誦がおこなわれていました。蓮如上はあくまで本願寺に採り入れたのであって、真宗に採り入れたというのではありません。

ここでいわれる和讃を五首か七首読誦するというのは和讃のふるい読誦方法と考えられます。これは理にかなった読み方で、たとえば高僧和讃なら和讃の数は曇鸞讃が三十四首、善導讃が二十六首となりますが、三十四首なら五首づつ四回、七首で二回読誦すれば区切りよく読め、二十六首なら七首づつ三回、五首で一回読誦すれば全部を読むことができます。

六首引のように一回に六首と限定すると、区切りが悪く、あまりがでてしまいます。高田派には現在も和讃五首との形式がのこされていますが、これもふるく五首か七首で読んでいたことのなごりを伝えるものとみられます。

五首、七首というのは和讃の数にもとづくものですが、六首読むというのは、それこそ蓮如上人が採り入れたもので、こちらはおそらく音階にもとづいて六首となったのではないかと考えられます。初重、二重、三重と三つの音階で和讃を読誦するなら、一つの音階で何首読むにしてもそこで読まれる和讃の総数は必然的に三の倍数となり、そこから一つの音階で二首づつを読む六首引となったのではないか思います。

了源上人は正信偈と和讃の読誦は明光上人から教えられたといっており、これも関東からもたらされた風儀だといえます。

(熊野恒陽 記)