「頭人」

~本願寺の勤行の斎の経費を負担することに~ 

大坂本願寺では、十一月の報恩講と、覚如上人や蓮如上人など本願寺歴代住持の祥月の忌日、それに、毎月の親鸞聖人の忌日と本願寺前住持の忌日に勤行が行なわれました。報恩講の勤行は二十一日の逮夜から二十八日の日中までで、覚如上人の忌日の勤行は一月十九日、蓮如上人の忌日の勤行は三月二十五日に行なわれます。毎月の前住持の忌日の勤行は、証如上人の代には実如上人が前住持であり、実如上人の忌日である二月二日に合わせ、毎月の二日に勤行が行なわれていました。それに親鸞聖人の忌日である十一月二十八日に合わせ、毎月の二十八日に勤行が行なわれます。

本願寺では住持が大きな力をもちましたが、勤行のかたちもそれと対応したものとなっています。歴代の住持の忌日の勤行が親鸞聖人の忌日の勤行と並んで行なわれています。本願寺では、毎月、親鸞聖人と前住持の忌日に勤行を行なっていますが、この形態は末寺でも採られようになり、末寺も親鸞聖人の忌日と並んで本願寺前住持の忌日に勤行をするようになります。

本願寺で行なわれた歴代住持の祥月の忌日の勤行や、毎月の親鸞聖人と前住持の忌日の勤行では、勤行とともに斎も催されました。斎のあとに勤行が行なわれます。この斎は勤行ごとに斎の経費を負担する人や寺が決まっています。同じ人や寺が、毎年、同一の勤行の斎の経費を負担するのです。斎の経費を負担する者を頭人といいますが、本願寺が大坂へ移った当初は、覚如上人の祥月の忌日の勤行には誓願寺、弘誓寺、法蔵寺などの近江の諸寺が頭人となり、蓮如上人の祥月の忌日の勤行には大坂寺内の六つの町が町として頭人となっていました。毎月の親鸞聖人と本願寺前住持の忌日では、四月は二日の実如上人の忌日の勤行には明照寺、正崇寺が頭人となり、二十八日の親鸞聖人の忌日の勤行では真宗寺、善教寺、慈光寺が頭人となっています。五月は実如上人の忌日の勤行では尾州十六日講、親鸞聖人の忌日の勤行では奈良衆が頭人です。

頭人の形態はさまざまで、勤行によっては一つの寺だけで頭人をつとめることもありましたが、こうして複数の寺が地域的にまとまったものや、講、町といったものが頭人をつとめることもありました。

頭人となるのは本願寺の直参の者だけです。直参とは本願寺の直弟のことで、直参の者は本願寺住持に直に会うことができました。斎には証如上人や、一家衆、坊主衆が参加しましたが、頭人もまた斎に参加します。頭人はここで本願寺住持と直に会うことになります。

大坂へ移った当初の大坂本願寺で頭人をつとめた者は、山科本願寺でも同一の勤行の頭人をつとめていたといわれています。山科での頭人の編成が、そのまま大坂へともち込まれているのです。例外は、蓮如上人の祥月の忌日の勤行で、大坂では大坂寺内町の町が頭人ですが、山科では山科寺内町の町が頭人でした。

この山科に本願寺があった時からの頭人の編成は、天文十年(1541)に大きく改められます。一部の寺が頭人をつとめる勤行を別の勤行に変更されるとともに、頭人となる寺や地域的なまとまりの数が増やされたのです。それにより、一つの勤行の頭人の数も増えることになりました。たとえば、十二月二十八日の親鸞聖人の忌日の勤行では、それまで河内八里衆が頭人をつとめていましたが、天文十年以後は河内八里衆に加え、吉野衆、高島の明誓が頭人をつとめています。

この増やされた頭人のなかには興正寺門徒も含まれています。興正寺門徒は興正寺門徒という集団として頭人となりました。頭人となるのは興正寺の門下であり、興正寺がなるわけではありません。興正寺門徒が頭人をつとめたのは八月二十八日の親鸞聖人の忌日の勤行です。八月二十八日の勤行は慈願寺が頭人でしたが、以後は興正寺門徒が単独で頭人をつとめました。

頭人が経費を負担するというのは、報恩講の斎や非時でも行なわれていることです。報恩講でも斎や非時ごとに頭人が決まっていました。そして、この報恩講の斎や非時の頭人も天文十年に、一部、改められ、興正寺門徒が頭人に加えられます。興正寺門徒が頭人をつとめたのは十一月二十二日の非時で、以後、この日の非時は興正寺門徒が頭人をつとめることになります。

興正寺門徒が頭人となったのは、本願寺が興正寺門徒を頭人に加えたためになったのです。頭人は本願寺の勤行の斎の経費を負担しているのであり、本願寺に奉仕する立場にあります。本願寺は興正寺門徒を頭人にすることによって、興正寺門徒に対する支配を強めようとしているのです。

(熊野恒陽 記)