「点心」

~興正寺住持が本願寺住持をもてなす行事~

天文四年(1535)、蓮秀上人は本願寺の一家衆となります。その後、蓮秀上人は一家衆として遇されますが、一家衆全体のなかでの蓮秀上人の扱いはもっとも下位の扱いです。証如上人の日記である『天文日記』に一家衆の名が列記される場合、蓮秀上人の名は、大抵、その末尾に書かれます。『天文日記』の記載は座並をそのままに書いています。一家衆が座る時には蓮秀上人はその末席に座ったのです。蓮秀上人より若い一家衆がいた時でも、蓮秀上人の席は末席でした。

蓮秀上人は一家衆といっても、そのなかでももっとも下位に位置する一家衆になったのです。一家衆の身分は、本来、本願寺住持の一族に受け継がれるものです。一族ではない蓮秀上人が一家衆としてもっとも下位の扱いをうけるのは、なかば当然のことです。

一家衆としての蓮秀上人の立場を興正寺と本願寺の関係に置きかえると、興正寺は数ある一家衆寺院の一つにすぎず、そのなかでももっとも下位の寺ということになります。しかし、現実には興正寺と本願寺はそうした関係ではありませんでした。興正寺と本願寺の関係は一家衆ということからは捉えられないのです。

興正寺と本願寺の関係の一端は、正月に行なわれていた蓮秀上人が証如上人をもてなすという行事からうかがうことができます。これは蓮秀上人が毎年の正月十三日に証如上人に点心を振る舞うという行事です。

この行事が行なわれていたことが確認できるのは天文三年(1534)からで、当初は本願寺で行なわれていました。これには証如上人だけではなく、一家衆や本願寺に仕えた下間氏の者なども参加しました。

従興正寺佳例之飯之如形祝儀点心候…今日相伴者、光応寺、左衛門督、顕証寺、教行寺…従本興正寺、上野也(『天文日記』)

天文五年(一五三六)の際の様子です。この時は光応寺、顕証寺などの一家衆と上野が相伴しています。上野とは下間頼慶のことです。頼慶は証如上人との取り次ぎをする奏者をつとめていた人物です。奏者はおおむね下間一族の筆頭の者がつとめます。

点心が振る舞われるのは昼のことです。参加者に三度、杯が回され、それに合わせて点心が供されました。

この行事は恒例の行事として、その後も本願寺で行なわれましたが、天文十六年(1547)からは興正寺で行なわれるようになります。興正寺は前年の天文十五年に御堂を再建するとともに、建造物を整備しています。それを機にこの点心を振る舞う行事も興正寺で行なうことになったのです。これにより、天文十六年からは証如上人も興正寺に来ることになりました。

午刻興正寺ヘ行也、先ヘ慶寿院之輿ニ小童乗之…其後予以輿行之…
飯、相伴兼智、兼澄、興正寺親子、丹後也、
飯者五汁十三菜、茶子九種也、中酒三返也(『天文日記』)

証如上人は午刻、つまりは正午に興正寺に向かったといっています。慶寿院の輿に小童が乗り、証如上人も輿に乗って興正寺へ向かいました。慶寿院は証如上人の母、小童は証如上人の子であるのちの顕如上人のことです。この時には慶寿院や顕如上人も興正寺に来ました。供せられた膳は五汁十三菜で、杯も三度、回されています。相伴したのは一家衆の兼智と兼澄、それに丹後こと、下間光頼です。興正寺親子とは蓮秀上人と息男の証秀上人のことです。証秀上人も加わって証如上人たちを迎えたのです。慶寿院や顕如上人も来るなど、天文十六年にはことに盛大に行なわれました。

以後、この行事は興正寺で行なわれますが、この行事は、蓮秀上人が亡くなったあとは証秀上人が証如上人を招き、証如上人が亡くなったあとは、招く日は違うものの、証秀上人が顕如上人を招くというかたちで、代が替わっても続いて行なわれます。

興正寺住持が本願寺住持をもてなすというこの行事は、興正寺が格別な地位にあるから行なわれていたものといえます。この行事は興正寺住持と本願寺住持とのつながりを強めるために行なわれたものです。住持同士のつながりを強めることで、寺としてのつながりも強めようとしたのです。本願寺にとっても、興正寺はつながりを強めなければならない寺だったのです。

証如上人が正月に赴いていたのは、興正寺を含め三箇所です。興正寺以外に赴いたのは、下間一族のうちの筆頭の地位にある者の屋敷と、本願寺住持一族の最有力者である蓮淳の宿所です。興正寺は、代々、本願寺に仕えた下間氏や、住持一族の有力者などとともに重要視された存在であったのです。

(熊野恒陽 記)