「報恩講」

~証如上人は興正寺報恩講にだけ出仕する~

大坂興正寺の御堂は天文十五年(1546)に再建されます。御堂とともに、その他の建造物もこの時に整備されました。御堂の再建を機に、この天文十五年から証如上人は毎年の興正寺の報恩講に出仕するようになります。興正寺の報恩講の勤行は、十一月十六日の逮夜から十一月十九日の日中まで行なわれます。証如上人は十一月十九日に興正寺に来ました。

本願寺の報恩講の勤行は十一月二十一日の逮夜から十一月二十八日の日中までで、二十日には御堂や厨子の掃除が行なわれます。興正寺の報恩講にひき続いて本願寺の報恩講が行なわれるかたちになっています。

蓮秀上人は、毎年、正月十三日に証如上人に点心を振る舞っていましたが、この行事も興正寺の建造物の整備を機に興正寺で行なわれるようになります。証如上人は、正月十三日の点心の振る舞いと、十一月十九日の報恩講とで、年に二度、興正寺を訪れました。

報恩講で興正寺に来る際には、証如上人は朝の七時ころ興正寺に来ました。歩いてくるのが習いです。

興正寺ヘ如恒例令歩行也…点心之時箸包之、相伴者興正寺親子、端坊、東坊計也、丹後相伴ニ召加之…日中和讃如先々[五十六億七千万也]…此方御堂衆者、浄照坊、賢勝…堂衆事可供之由、自興正寺被申也(『天文日記』)

興正寺に到着後、証如上人には朝食として点心が供せられます。これには蓮秀上人と息男の証秀上人、それに興正寺の末寺頭である端坊と東坊、さらには丹後こと、下間光頼が相伴しました。点心のあと日中の勤行です。証如上人はこの日中の勤行に出仕します。これには本願寺の御堂衆である浄照坊、賢勝も出仕しました。本願寺の御堂衆の出仕は蓮秀上人が望んだことだと書かれています。勤行ではいつものように『正像末和讃』の「五十六億七千萬 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」の和讃がつとめられたとあります。

日中の勤行の終了後、証如上人は興正寺の門徒衆と対面します。二百人を超える門徒衆と対面した年もありました。門徒衆との対面が済んだあとは、興正寺門下の坊主衆と対面します。興正寺門下の坊主のうちでも有力な坊主は、本願寺の直参として扱われます。直参として扱われる有力な坊主が証如上人と対面しました。天文十五年の報恩講では、証如上人は十二人の坊主たちと対面しています。

門徒衆、坊主衆との対面ののちに斎があります。膳とともに酒も供せられました。斎が済むと証如上人は本願寺へ帰ります。

証如上人が興正寺の報恩講に出仕することは蓮秀上人が希望したことであり、天文十五年、証如上人がはじめて出仕した際には、喜びから、証如上人に尊円法親王が写した御伝鈔を進呈することを申し出ています。

御伝詞尊円遊之本久令所持、于今相残之間、可進献之由被申也(『天文日記』)

尊円法親王は伏見天皇の第六子で、青蓮院の第十七世の門跡になった人です。了源上人と同世代の人であり、正平十一年(1356)、五十九歳で亡くなっています。書の流派である御家流は、この尊円法親王が開いたものです。御家流は書の流派としては、ひろく普及した流派です。蓮秀上人はその尊円法親王が写した御伝鈔を所持していて、それを証如上人に進呈するというのです。蓮秀上人の喜びのほどが分かります。

蓮秀上人は証如上人が来たことを喜んでいますが、証如上人が報恩講に出仕するということは特別なことです。証如上人が報恩講に出仕するのは本願寺以外では興正寺だけです。他の寺の報恩講に出仕することはありません。大坂の近隣には一家衆の寺もありますが、一家衆の寺の報恩講にも出仕することはありません。一家衆の寺に出仕しないのは、むしろ当然です。報恩講ということでいえば、報恩講では逆に一家衆の側が本願寺の報恩講に出仕しなければならない立場にありました。一家衆は本願寺の報恩講でさまざまな役割をつとめます。さまざまな役割を負わされているのです。一家衆というのは本願寺住持の一族です。一族が役割を負わされ当主の本願寺住持のもとに出仕しているのです。当主は一族のもとには出仕はしません。

蓮秀上人は本願寺住持の一族ではありません。一族の寺ではなく、しかも格別な地位にあるからこそ、証如上人は興正寺の報恩講に出仕したのです。証如上人が出仕するのは興正寺だけです。興正寺はまさに別格の扱いをうけていたのです。

(熊野恒陽 記)