「本願寺報恩講」

~興正寺門下の坊主たちも赴いた~

大坂本願寺の報恩講の勤行は十一月二十一日の逮夜から十一月二十八日の日中まで行なわれます。興正寺の報恩講の勤行は、十一月十六日の逮夜から十一月十九日の日中までであり、興正寺の報恩講にひき続いて本願寺の報恩講が行なわれるかたちになっています。

興正寺門徒は興正寺の報恩講に参詣しましたが、本願寺の報恩講にも参詣しました。興正寺門下の坊主も興正寺の報恩講には興正寺に赴き、本願寺の報恩講には本願寺に赴きます。興正寺の門下にとっては、興正寺の報恩講と本願寺の報恩講は、ひき続いて行なわれる一連の行事と捉えられていたものと思います。

本願寺の報恩講では晨朝、日中、逮夜の三時に勤行が行なわれますが、それとともに晨朝の勤行のあとに斎、日中の勤行のあとには非時が催されます。斎や非時には本願寺住持である証如上人をはじめ、一家衆、坊主衆が参加しました。この斎や非時は、斎や非時ごとに経費を負担する頭人が決まっていて、毎年、同じ頭人が同一の斎や非時の経費を負担します。興正寺門徒も天文十年(1541)からは頭人に加えられ、天文十年以後は興正寺門徒が、毎年、十一月二十二日の非時の頭人をつとめることになりました。斎や非時の頭人となるのは本願寺の直参の者だけです。十一月二十二日の非時も、興正寺門下のうちでも本願寺の直参として扱われる有力な坊主たちが、興正寺門徒を代表して頭人となりました。

頭人は自分が頭人をつとめる斎や非時に出て自らも相伴しましたが、頭人の役割はそれだけではありません。斎や非時にはそれぞれに勤行が行なわれ、頭人たちはその勤行の導師をつとめました。勤行は本願寺の御影堂で行なわれます。正信偈に和讃三首がつとめられました。斎の勤行は逮夜の勤行が終わったのちに行なわれ、非時の勤行は斎の勤行が終わり、さらに改悔という行事が終わったのちに行なわれます。十一月二十二日の夜には興正寺門下の坊主が導師となって、本願寺の御影堂で非時の勤行が行なわれたのです。

非時の勤行に先立って行なわれる改悔とは、報恩講に集まった坊主たちが、順次、御影堂の親鸞聖人の御影の前に進み出て、法義について自分の思っていることを申し述べるという行事です。

人多くみえ候時も百人とも候はず候、五六十七八十人が多勢の分にて候間、坊主衆計一人づゝ改悔せられ、一心のとほり心しづかに被申、総の衆五人か十人か後に終に被申間、殊勝なる改悔にてたふとく候つる(『本願寺作法之次第』)

これは山科本願寺の報恩講の改悔の様子を記したものです。改悔は逮夜の勤行が済み、参詣の人たちもあらかた帰ったあとに行なわれます。参加したのは多くて七、八十人だと述べられています。そうしたなか坊主が一人ずつ進み出て、自分の思いをありのままに穏やかに語ったのだといいます。そのあり様は、語られる内容もすぐれ、尊いものであったと記されています。

改悔は蓮如上人の時代から行なわれるようになったものです。蓮如上人は御文などで語ることの重要さを説き、しきりに互いに信心について語り合うことを勧めています。改悔はそうした蓮如上人の教化方針と合致するものであり、蓮如上人が語ることを重視したことから行なわれるようになった行事だといえます。

大坂本願寺の報恩講の改悔も、この山科本願寺で行なわれた改悔を踏襲して行なわれたものです。改悔が行なわれるのは十一月二十一日から二十七日までです。悔改は斎の勤行後に行なわれますが、二十一日は斎と斎の勤行がないので、逮夜の勤行後に行なわれます。

悔改をするのはおもに直参の坊主たちです。直参坊主の門下の坊主が改悔をすることもありますが、数は少ないです。報恩講の期間中、のべにして百三十人ほどの坊主が改悔をしました。改悔をする坊主は百人ほどですが、なかには二度、三度と改悔をする坊主もいるため、坊主の総数はのべ百三十人ほどになります。

改悔をする人数がもっとも多いのは初日の二十一日です。この日には五十人ほどが改悔をします。二十一日には証如上人も出座して改悔を聞きました。二十五日は御伝鈔の拝読があって、改悔は行なわれません。

改悔ではまず自分の居住地と寺号や法名などを名乗り、その上で改悔を行ないます。語る者は、自分が誰であるかを示し、その上で自分の思いを語ったのです。

改悔では興正寺門下の坊主たちも改悔を行なっています。興正寺の報恩講に赴いたのち、本願寺の報恩講へと赴いて、改悔をしたのです。

(熊野恒陽 記)