「法名状」

~本願寺住持と同様の振る舞い~ 

兵庫県明石市の光触寺には蓮秀上人が下した法名状が伝えられています。光触寺は興正派の寺です。

  法名
     釈教秀
 天文十八年十一月廿三日
     釈蓮秀(花押)

法名状にはこう記されています。天文十八年(1549)十一月二十三日に、蓮秀上人が教信との法名を授けたということを表しています。光触寺にはこのほか、蓮如上人や実如上人、それに興正寺の顕尊上人や良尊上人が下した法名状が伝えられています。

蓮如上人のものは文明九年(1477)二月八日のもので、釈了善の法名を授けています。実如上人のものは大永四年(1524)三月二十八日のもので、釈了教の法名を授けています。蓮如上人の法名状は釈蓮如ではなく、陰士と署名されています。

寺伝では、光触寺は寿信が開いた寺で、了善が中興したのだといいます。寿信は俗名を佐々木義清といい、親鸞聖人の弟子になったとされています。了善は七代目の住持で、蓮如上人の弟子だったといいます。了善が蓮如上人の弟子であったことは、了善との法名を蓮如上人から授けられていることから明らかです。

光触寺は興正寺の末寺ですが、了善は文明九年に蓮如上人から法名を授けられています。蓮教上人が本願寺の教団に参入するのは文明十三年(1481)ころのことです。了善は蓮教上人に先立って本願寺に参入していたことになります。了善が本願寺に参入したのち、蓮教上人が本願寺に参入したことから、了善は、再度、蓮教上人に帰依して、興正寺の門下になったのだとみられます。

蓮如上人が下した法名状は光触寺以外の寺にも伝えられていますが、それほど多くは伝えられていません。実如上人の法名状にしても、多くはのこされていません。蓮如上人や実如上人の時代に法名を名乗る者は多くいましたが、本願寺から法名状を下してもらった上で法名を名乗っていたという者はあまり多くはなかったようです。光触寺では、了善が蓮如上人から法名を授けられ、続く了教も実如上人から法名を授けられています。了善ならびに了教が有力な坊主であったことは疑いありません。

蓮如上人と実如上人の下した法名状はともに同じ書式で書かれています。最初に法名と書かれ、次いで授けられる法名、その次ぎには年月日が書かれ、最後には法名を授ける蓮如上人なり実如上人の名が書かれています。この書式は本願寺に受け継がれた書式だということになりますが、蓮秀上人が下した法名状もこれとまったく同じ書式で書かれています。蓮秀上人は本願寺の書式を踏襲して書いているのです。

法名状は本願寺住持が下すものであり、蓮秀上人など興正寺住持が下しているほかは、わずかに本願寺住持の一族の数人が下しているだけのものです。興正寺の住持は興正寺の門下に対し、本願寺の住持と同様の振る舞いをしていたことが分かります。

蓮秀上人の法名状は光触寺以外では、大分県大分市の専想寺、奈良県大和郡山市の光慶寺に伝えられています。ともに現在は本願寺派に属する寺院です。

専想寺は九州に最初に真宗を伝えた天然が開いた寺です。専想寺に伝えられる法名状は天文十九年(1550)十一月二十六日のもので、釈正祐の法名を授けています。専想寺にはこのほか、天文十九年十一月十二日のもので釈善慶との法名を授けた法名状も伝えられていますが、こちらは証如上人が下した法名状です。善慶については専想寺の三代目住持と伝えられていますが、正祐については特に伝えはないようです。

光慶寺の法名状は天文二十年(1551)二月三日のもので、釈尼妙誓の法名を授けています。光慶寺は、いまは大和郡山市にありますが、もとは山城国久世郡岩田にあった寺です。現在の京都府八幡市です。法名状が下された天文二十年には岩田にありました。

光慶寺では、淳慶という者の代の時、蓮教上人に従って本願寺に帰したと伝えています。この淳慶は実在の人物で、岩田淳慶と墨書のある浄土三部経や『選択集』が伝えられています。淳慶の所持していた本は、現在、龍谷大学に所蔵されています。光慶寺では歴代の名に教宗との名を伝えていますが、この教宗も実在の人物で、証如上人の『天文日記』に岩田教宗として出てきます。法名状の釈尼妙誓は、時代的にみて、この教宗と関わり深い人物とみられます。

(熊野恒陽 記)