「蓮秀上人の死」

~葬礼と門下の対応~

蓮秀上人は天文二十一年(1552)七月十日に亡くなります。証如上人の『天文日記』には、蓮秀上人が亡くなった際の記事がのせられています。

申剋興正寺蓮秀[七十一歳]卒去也、痛敷事也

蓮秀上人は、申剋、すなわち午後四時に亡くなったと記されています。七十一歳であったとも記されています。証如上人は、蓮秀上人は七十一歳で亡くなったと書いていますが、蓮秀上人が亡くなった時の年齢については別の所伝もあります。それは興正寺の所伝で、興正寺では、古くより、蓮秀上人は七十二歳で亡くなったとしています。

蓮秀上人の葬礼は亡くなって三日後の七月十三日に執り行われています。

興正寺葬、八時過也、見物ニ行、大弐、恵光、専
修寺之弟竜勝寺等被出候、刑部卿ト民部卿子ト役ヲセラレ候(『私心記』)

葬礼は八時過ぎ、すなわち午後二時過ぎに行なわれたと述べられています。続けて、大弐と恵光寺、それに専修寺の弟の竜勝寺が式に出たと述べられています。大弐とあるのは本願寺の一家衆である松岡寺祐宗のことです。恵光寺、専修寺も一家衆寺院です。そして、さらに続けて、刑部卿と民部卿の子が役をしたと述べられています。刑部卿とあるのは蓮秀上人の息男で、蓮秀上人が亡くなった後に興正寺を継いだ証秀上人のことです。民部卿は蓮秀上人の子で、証秀上人の兄にあたる実秀上人のことです。実秀上人は証秀上人の兄ですが、父である蓮秀上人よりも先に亡くなっていて、興正寺を継ぐことはありませんでした。実秀上人がいつ亡くなったのかは正確には分かっていませんが、興正寺が大坂へと移ったのちに亡くなっていることは確かです。この実秀上人の子が証秀上人とともに役をしたと述べられているのです。

翌七月四日には骨揚げが行なわれました。

暁、興正寺灰寄ト云々、今日ヨリ中陰ト云々、
一家衆ハ竜勝寺計、灰寄ニ出候(『私心記』)

一家衆では竜勝寺だけが骨揚げに出たとあります。

蓮秀上人が亡くなるのは七月十日のことですが、その直前の七月三日、蓮秀上人に仕えていた野條豊前が得度をしています。野條家は、代々、興正寺に仕えた家で、興正寺の俗事をとり仕切っていました。

野条豊前任望、於御堂令剃髪…惣一家被官ニ剃刀当之事雖無其例、
彼豊前事ハ良薬等出之、細々参者御事候間、以各別之儀、可当之由申出之、
即晩剃之也(『天文日記』)

野條豊前の希望により御堂で剃髪したと書かれています。剃刀を当てたのは証如上人で、御堂は本願寺の御堂のことです。証如上人は、一家衆の被官に剃刀を当てることは例のないことであるが、豊前は薬を出すなど、本願寺にも出入りしていた者なので特別に剃刀を当てたと述べています。

この野條豊前の得度が、蓮秀上人が亡くなったことと無関係であったとは思われません。豊前は主人である蓮秀上人の最期が近いことをさとり、得度したものとみられます。証如上人は豊前が薬を出したといっていますが、豊前は薬に詳しく、薬の調合もしました。証如上人に限らず、本願寺住持の一族も豊前から薬をもらっていました。

蓮秀上人が亡くなった際には、興正寺の門下の者にも、葬礼に参列したり、弔いのための懇志を納めたりとさまざまな対応がみられたはずですが、そうした対応の一端を示すものとして、懇志を受けとったことに対して礼を述べた証秀上人の書状がのされています。

就蓮秀往生之儀、御明[拾疋]幷五十疋送給候、
悉志之至、難有候(『長光寺文書』)

証秀上人の書状の一節です。この書状は越中の長光寺に宛てられたもので、日付は八月二十九日です。蓮秀上人が亡くなったのに際し、燈明料と懇志を贈られたので、その礼を述べています。

書状が宛てられた長光寺は越中国砺波郡西五位庄石堤にある寺です。現今の富山県高岡市です。高岡市やその周辺は興正寺の末寺や門徒の多かった地域です。長光寺の記録によれば、この長光寺には永正十二年(1515)十一月五日、実如上人の裏書のある絵像の方便法身尊像が下されています。はやくから寺号を称する寺で、有力な寺であったことは間違いありません。

長光寺は懇志を納めていますが、蓮秀上人が亡くなった際には、この長光寺のように懇志を納めた門下の者は多くいたものと思われます。

(熊野恒陽 記)