「興正寺の教化」

~了源上人はどう教化したのか~

了源上人が建立した山科の興正寺では、真宗の教えにもとづくさまざまな行事がもよおされ、人びとへの教化が行なわれていたと思われますが、どのような行事が行なわれたのかはくわしく知ることはできません。一つだけ知られているのは、正中元年(1324)八月の時正(じしょう)中日に供養が行なわれたことで、存覚上人が導師をつとめています(存覚一期記)。時正とは昼と夜の長さがひとしいという意で、春と秋の彼岸のことを意味します。この場合は旧暦八月ですから、秋の彼岸のことになります。山科興正寺で行なわれたことが確かめられるのはこの彼岸会だけです。

山科の興正寺はその後渋谷の地に移され、寺号を佛光寺と改めますが、おもしろいことに佛光寺となった直後にも彼岸に供養が行なわれたことが記録にのこされています。この時は春の時正中日で、同じく存覚上人が導師をつとめています(存覚一期記)。「聖道出仕儀式也」と記され、厳格な儀式がいとなまれたようです。こうしてことさらに彼岸会のことが記録にのこされるのは、興正寺では彼岸会が重要な行事であったからだと考えられます。了源上人は春秋の彼岸を特別な日とみていたことがうかがえると思います。

これと対応するかたちで、本願寺の覚如上人は『改邪鈔』という著述のなかで彼岸について言及し、彼岸を重視することを批判しています。

二季の彼岸をもて念仏修行の時節とさだむる、いはれなき事。
(他力の行者には)行住坐臥を論ぜず長時不退に到彼岸(とうひがん)の謂(いひ)あり…二季の正時をえりすぐりて、その念仏往生の時分とさだめて起行をはげますともがら、祖師の御一流にそむけり

浄土往生は、時を定めず、本願のいわれを聞信する一念に決定するものであって、とくに彼岸をかぎって念仏修行の日とするのはあやまりだと説かれます。

『改邪鈔』は邪を改めることを目的に撰述されたものですが、採りあげられる邪は覚如上人にとっての邪であり、のちに本願寺とは袂を分かった了源上人に対しては、了源上人を邪と決めつけ、とくに激しい批判が述べられています。『改邪鈔』に彼岸についての編目がたてられていることからみても、興正寺で彼岸が重視されていたことは間違いありません。覚如上人もそれを見聞していたのでしょう。

善導大師の『観経疏』に「その日(ひ)正東(しょうとう)より出でて直西(じきさい)に没す。弥陀仏国は日没の処に当りて、直西十万億の刹(せつ)を超過す」とあるように、彼岸には太陽が真東から出て、真西に沈みます。こうしたことから一般に西方浄土を求める浄土信仰と彼岸は結びついて理解されており、彼岸の日の日没に西に向かって念仏を称えるということも各所で行なわれていました。ことに西方浄土の東門とされる大阪の四天王寺での念仏は有名です。了源上人もこうした一般の理解を踏まえて、彼岸を重視していたものとみられます。

現在も彼岸会は日本の仏教の各宗でいとなまれていますが、彼岸会は浄土信仰にかぎらず、すべての宗派で行なわれたもので、それこそ上下の別なく人びとに受け入れられた仏教行事といえます。彼岸の日に仏事を行なうのは日本だけで、仏教本来の行事ではないといわれます。宋(そう)の時代の中国僧は、彼岸は日本の習俗だといっています(大休禅師語録)。

日本で彼岸の仏事がひろまったのは平安時代からで、『源氏物語』のなかにも「彼岸の初にていとよき日なりけり」との記述がみられます。彼岸は善根をつむ日とされ、沐浴をし、魚肉を断ち、種々の仏事がいとなまれました。日本だけの習俗であるにしても、彼岸は人びとの生活に深く根付いたもので、まさに「仏法相応の時節」として受け入れられていました(壒嚢抄)。

興正寺で彼岸会がいとなまれたのもこうした人心を汲んでのもので、庶民の信仰を集めるため、庶民の願いにそって行なわれたといえます。興正寺の教化がいわば現実的な方途ですすめられていたことを示しています。覚如上人は彼岸の重視を邪としていますが、これは両寺の性格の違いからくる主張とみられます。興正寺が庶民教化をすすめる寺であったのに対し、本願寺は教学の伝授と指導をする寺で、庶民の信仰を集める必要はありませんでした。のちの蓮如上人以後は本願寺も庶民教化をすすめる寺に性格を変えますが、それにともない本願寺も彼岸会を行なうようになっていきます。性格が変わると、邪といっていたものも邪ではなくなるようです。

(熊野恒陽 記)