「山科興正寺の発展」

~庶民教化を存覚上人の協力~

山科興正寺では庶民教化がすすめられ、庶民の信仰を集めて興正寺は発展していきます。山科の興正寺で行なわれていたことが知られるのは彼岸会だけですが、興正寺は彼岸会にみられるような庶民的な行事を行なったり、あるいは葬送や亡者の年忌供養といった庶民に直接かかわる仏事にたずさわることで発展したものとみられます。

現実の社会のなかに教えをひろめる以上、世の状況とそこに生きる庶民の素朴な願いを無視してはひろく教えをひろめることはできません。庶民が実際に求めるのは葬送や年忌の供養であり、それにこたえるかたちで教化をすすめ、そこを入り口に「諸人得脱ノ覚路ヲトフラフヘキ」真宗の教えが説かれていったものと思います(勧進帳)。庶民の心意を汲んだいわば現実的な教化方法だといえます。

山科興正寺がどの程度の発展をみせたのかはくわしく知ることはできませんが、のち了源上人は「京都トイヒ辺国トイヒ、コノ法ヲヒロメテ道場ヲカマヘ、本尊ヲ安置スルコトソノカスステニオホシ」といっており、上人在世中に門下の道場も数多くできていたことが知られますから、興正寺が急速にかなりの発展をとげたことは疑いありません(一味和合契約状)。了源上人は本願寺の存覚上人をたすけ、存覚上人を興正寺に寄宿させたり、別に住坊をもうけたりと生活全般の援助をつづけましたが、こうしたことからも了源上人の時代の興正寺の発展の様子がうかがえると思います。

存覚上人は覚如上人の長子で、本来ならば本願寺を継ぐべき人ですが、生涯に二度父の覚如上人から義絶され、結局、本願寺を継ぐことはありませんでした。最初の義絶の際に存覚上人をたすけたのが了源上人で、行き場を失った存覚上人を山科の興正寺に招きました。存覚上人も了源上人を頼りにしたのでしょう。存覚上人は長らく興正寺に住み、存覚上人の子供も興正寺で生れています。

存覚上人は興正寺の門徒にかぎらず、親鸞聖人の流れを汲む関東の門徒団をも指導した人で、関東の門弟たちも存覚上人と親しくまじわっていました。門徒団の信望はあつく、覚如上人に対しても連署して義絶を許すよう求めています。

関東の門徒たちはしばしば存覚上人をたずね、法義の指導をうけたり、義絶和解の相談をしたりしたようですが、存覚上人は興正寺に住んでいるのですから、こうした面会も興正寺で行なわれていたとみられます。関東の門徒たちの興正寺への出入りは相当あったはずで、親鸞聖人の廟堂である本願寺と興正寺を順次にめぐるということも行なわれていたのだと思います。

存覚上人は当時の真宗のなかでは突出した学僧で多くの著述をのこしていますが、そのうちには了源上人の求めに応じて著されたものものこされています。『持名鈔(じみようしょう)』『浄土真要鈔(じょうどしんようしょう)』『弁述名体鈔(べんじゅつみょうたいしょう)』『破邪顕正鈔(はじゃけんしょうしょう)』『諸神本懐集(しょしんほんかいしゅう)』『女人往生聞書(にょにんおうじょうききがき)』などの述作で、存覚上人が興正寺に寄宿しているあいだに書かれたものです(浄典目録)。真宗の要点を述べたものや、神祇と真宗の関係を述べるもの、真宗での女人往生を述べるものなど、内容はさまざまなものとなっていますが、いずれも仮名書きで、分かりやすく書かれていることに特徴があるようです。これらのなか『持名鈔』は、了源上人がすでに所持していた本をもとにして、存覚上人がそこに添削を加えるかたちで成った述作ですが、この書には存覚上人の識語があって、了源上人の依頼により分かりやすく書いたのだと述べられています。

文字ニウトカラン人ノコヽロエヤスカランコトヲサキトスヘキヨシ、
本主ノノソミナルユヘニ重々コトハヲヤワラケ一一ニ訓釈ヲモチヰル

本主とは添削を求めた了源上人のことで、上人の望みにまかせ、文字にうとい人びとにも心得やすいように言葉をやわらげて一つ一つに訓釈をつけたと述べられます。仏教のことばにうとい普通の人びとへの配慮といえます。庶民教化をすすめる了源上人の姿勢をうかがわせます。

存覚上人は了源上人の所望によって数十帖の聖教をあらたに書いたり書写したともいっており、自身の著述にとどまらず、多数の聖教の書写本も興正寺にもたらしたようです(存覚一期記)。存覚上人は一般の仏教や習俗にそって教えを説き庶民教化につとめたといわれますが、存覚上人が了源上人に協力をつづけたのも、庶民教化という点で了源上人と一致した意見をもっていたからだと思います。

(熊野恒陽 記)