「渋谷の地」

~なぜ渋谷の地が選ばれたのか~

嘉暦三年(1328)ころ、了源上人は興正寺の寺基を京都東山の渋谷(しぶたに)の地に移し、寺号を佛光寺と改めます。以後、佛光寺はながく渋谷にありましたが、その期間のとらえ方について、現在の興正寺と佛光寺では異なった見方をしています。この佛光寺はのちに二つに分れ、いまの興正寺と佛光寺とになりますが、その際、興正寺はこの地を離れたのに対し、佛光寺はそのままこの地に残ります。興正寺と佛光寺が分れたのは文明十三年(1481)ころのことで、興正寺からすれば、興正寺につながる佛光寺は百五十年あまり渋谷の地にあったことになります。一方、佛光寺からすると、佛光寺はそのまま渋谷の地にあり、天正十四年(1586)前後に現在の五条坊門の地へと移りますから、佛光寺は二百五十年あまりこの渋谷の地にあったことになります。もとより、とらえ方のちがいによるもので、どちらが正しいというものではありません。

興正寺の伝承によると、渋谷の佛光寺は佛光寺と寺号を改めたのちも山科以来の興正寺の寺号を残していたとされ、一つの寺に二つの寺号があったとされています。一つの寺に二つの寺号があってもおかしくはありませんが、当時の史料には「一向宗堂佛光寺」と書き記されており、正式な寺号とするなら佛光寺ということになります(祇園執行日記)。のち蓮如上人の教団に参入してあらたに興正寺を開いた経豪(蓮教)上人も、興正寺を開いた後、のちのちまで「佛光寺殿」と呼ばれていました(空善記)。

ならば興正寺との寺号が用いられなかったのかというと、佛光寺となった後にも、もとの寺号は興正寺であったといいつづけていたようで、興正寺という寺号も周知の寺号であったはずです。伝承でいう、二つ寺号があったというよりも、興正寺の寺号は佛光寺の旧名として通じていたとみるべきだと思います。

佛光寺があった渋谷の地は、現在の興正寺本山から東に一粁ほどのところで、いまの京都市東山区茶屋町がその地にあたります。現在は豊国神社(ほうこくじんじゃ)と方広寺(ほうこうじ)が建っており、その境内地となっています。この地は京都と山科とを結ぶ中世の苦集滅路(くずめじ)という道に面しており、その道の南側に佛光寺が建っていました。苦集滅路は東山を越えて山科に抜ける道で、別名を渋谷越(しぶたにごえ)ともいいます。中世、京都と山科の往来には三条粟田口(あわたぐち)から山科に抜ける東海道か、この苦集滅路が使われました。佛光寺の山科から渋谷への移転も、ちょうど苦集滅路を通って移ったかたちになっています。

渋谷は鴨川の東側に位置し、京都といっても、平安京の範囲内である洛中(らくちゅう)ではなく洛外(らくがい)にあたります。平安京の洛中と洛外の区別は長く残っており、洛中を京中(きょうちゅう)というのに対し、洛外は辺土(へんど)といわれました。鴨川の東側も辺土で、京とは呼ばれずにひろく河東(かとう)とか白河(しらかわ)の名で呼ばれました。渋谷もひろくは白河に含まれていて、佛光寺の所在地を白河と表す例もあります。

区別があるとはいえ、京中も辺土もひとつづきの土地であって、全体で京都という町が成り立っていました。京都に寺があるということから得られる便宜は大きく、了源上人もさまざまな便宜を求めて寺を京都渋谷へ移したといえます。ではなぜ上人は京都のなかでも渋谷の地を選んだのかというと、おそらく、上人と鎌倉武士とのつながりから、この渋谷の地が選定されたのではないかと思います。

鎌倉幕府の京都での拠点は六波羅探題府(ろくはらたんだいふ)で、幕府の出先機関として在京する武士たちの支配にあたっていました。この六波羅探題府はその名のとおりに京都六波羅の地にありましたが、六波羅は渋谷の北側、至近の距離で、渋谷と六波羅とはほとんど隣接地といってよいような位置関係にあります。通常、武士たちは主従関係を目にみえるかたちで示すため、主人の家の脇に家来も住むというふうに集まり住むもので、京都でも同様に、武士や家来たちは六波羅周辺に集まり住んでいました。それゆえ六波羅の周辺は、京都といっても、さながら武士の支配地のようになっていました。

鎌倉武士の中間であった了源上人が六波羅に近い渋谷を移転の地に選んでいるのは偶然とは思われません。上人自身、関東から京都に移った当初は六波羅周辺に住んでいたとも考えられます。いうなれば六波羅周辺は上人にとって縁のふかい土地であり、武士やその家来たちなのか、移転以前からすでに六波羅周辺には門徒もいたようです(念仏相承血脈掟書)。

渋谷の地所の取得にしても、武士とのつながりがあったから入手できたとみられますし、上人が渋谷の地を選定したことの背後には、鎌倉武士の存在を考えなければなりません。

(熊野恒陽 記)