「興正寺という寺号」

興正寺の寺号は興隆正法の語にちなむもので、興隆正法寺を略し、興正寺というのだと伝えられます。正しき法を興し、さかえさす。興正寺の寺号には、正法を興隆するとの願いが込められているといわれます。

興正寺の寺号の由来は、いまではこれ以上に語られることはなくなっています。由来とはいっても、いささか漠然とした感じがします。

江戸時代には、興正寺という寺号の由来について、もっと具体的に語られていました。江戸時代の興正寺では、興正寺の寺号は廟崛偈といわれる聖徳太子の偈文によるものだと説かれていました(当山御系譜)。

明治時代、興正派の中島慈応師が著した『真宗法脈史』にも興正寺の寺号は聖徳太子の廟崛偈によるものだとの指摘があります。江戸時代にいわれていた説を踏まえての指摘だと思います。

廟崛偈は、聖徳太子みずからが書かれたと信じられていた偈文で、太子の墓である廟崛の中に記されていたとされることから廟崛偈といわれます。実際はのちの時代に太子に託し作られたものですが、鎌倉時代には太子の自作と信じられ、ひろく知られた偈文でした。

廟崛偈には、偈文のはじめのところに興正という文字が現れます。

大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法

大いなる慈悲が私の誓願であり、衆生を独り子のようにあわれみ、おもっている。そのため方便として西方よりこの片州の国に生まれ、正法を興す。聖徳太子が観音菩薩の化身としてこの世に生まれたとの伝承にもとづき、観音菩薩である太子が西方浄土からこの国に誕生したいわれを説いています。

江戸時代の興正寺では、ここにみられる興正という文字から、興正寺の寺号が付けられたと説いていました。この説によるなら、興正寺という寺号は聖徳太子に関係する寺号ということになりますが、いろいろな事柄から考えて、この説は正しいのだと思います。

興正寺は事実上第七世とされる了源上人により開かれましたが、上人は興正寺の建立にあたり、聖徳太子の像を造立されています。上人は阿弥陀如来とともに聖徳太子像を安置する寺として興正寺の建立を志されました。この太子像は現在も佛光寺本山に伝えられており、胎内には第四世了海上人の遺骨が納められています。了海上人も太子を信仰していたようで、興正寺の系統には太子を尊崇する伝統があったようです。

聖徳太子ハ和国ノ教主ナリ、諸典ヲ豊葦原ノウチニ弘宣ス(佛光寺造立勧進帳)

了源上人は、聖徳太子は日本の教主で、この国に仏教を興し、ひろめた人である、と太子を称えています。

聖徳太子について、上人はさらに述べています。

実ニ正法興隆ノ場ニハ邪風戦ノ道理ナリ、スデニ釈迦文仏ノ御時ニハ調達アリ、
上宮太子ノ御時ニハ守屋ノ連アリテ正法ヲ妨ゲタリ(算頭録)

正法が興隆されるところには必ず敵対する者が現れる。釈迦如来の時には調達が釈迦にそむき、聖徳太子の時には守屋が太子にさからい、正法の興隆をさまたげた。物部守屋が廃仏をとなえ、仏教を興隆した太子に敵対したことをいっています。ここには正法興隆との語がもちいられ、聖徳太子のことが述べられます。聖徳太子は正法を興隆する人とされ、太子の事跡は端的に正法興隆の語でとらえられています。

興正法、正法興隆といった語は、聖徳太子と結びついて、太子を想起させる語であったようで、太子をあがめた興正寺でもここから興正寺の寺号を称したのだと思います。

古い時代の真宗には、聖徳太子の信仰が色濃く取りこまれており、絵や彫刻の太子像、太子の絵伝や伝記など、さまざまなかたちでかつての信仰のあとが残されています。太子とのいわれを説いたり、太子にちなむ寺号を称する寺も少なくありません。

真宗の太子信仰は親鸞聖人いらいのもので、聖人が関東で住まわれた稲田草庵の本尊は聖徳太子像であったといわれています(顕正流儀鈔)。

聖人の太子崇敬の念はことに深く、門下も聖人にならい太子を尊び、うやまったのだと考えられます。

真宗の太子信仰は、教えのなかに明確に位置づけられたものではなく、時代とともにしだいに衰退していきます。太子信仰の衰退にしたがい、興正寺の寺号から太子を思い起こすこともなくなっていったのだと思います。

(熊野恒陽 記)