「興正寺の伝承 その一」

~親鸞聖人一旦帰洛説をどう考えるか~

興正寺の寺伝では、越後へ流罪となった親鸞聖人は流罪が許された後に、一旦京都へと戻り、京都から関東へ向ったとされています。聖人が京都へと戻ったときに建てられたのが興正寺で、ここから興正寺では、興正寺は親鸞聖人が開いた寺であるといっています。

この説は江戸時代、興正寺がさかんに喧伝したもので、説かれていくうちに内容も肉付けされ、より具体的に語られるようになっていきました。

江戸時代後半に著された『興正寺略伝』『当山御系譜』などから、江戸時代、興正寺でこの説がどのように語られていたのかをみてみると、親鸞聖人は建暦元年(1211)に流罪の勅免をうけて、翌建暦二年に上洛したとして、上洛の理由も、皇恩を拝謝するため上洛したのだと述べられています。興正寺草創の経緯については、一旦帰洛の際、聖人が帝に請われて、山科に一宇を設けたのが興正寺のはじまりとされ、興正寺との寺号も帝より賜ったものだとされます。

流罪赦免後の聖人が越後より、一旦帰洛したとする説は、興正寺と佛光寺が寺伝として伝えるものですが、この説は江戸時代から疑問視されていて、現在も一般には史実とは認められていません。本願寺の覚如上人の著した『御伝鈔』に「聖人越後国より常陸国にこへて笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ」とあるのをはじめとして、一般には聖人は越後から、直接、関東におもむいたとされています。『恵信尼消息』により、聖人が上野国の佐貫(さぬき)(群馬県邑楽郡)で千部経の読誦を思い立ち、やがて中止したという出来事があったことが知られていますが、これも越後から、直接、常陸へと向った道中での出来事だと考えられています。文中、その後に常陸に向ったとの記述があり、経路からいっても、そう考えるのが妥当なようです。

聖人はもともと京都にいたわけですから、流罪赦免後、京都に戻ったとしても不思議はなく、むしろ戻るのが自然のことなのですが、では本当に戻ったのかというと、これを直截に証明する証拠は何もありません。

しかし、この聖人が一旦京都に戻ったとするのは相当に古い伝承で、鎌倉時代の了源上人がすでにこの説に言及しています。

親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ、帰洛マシ〱テ、
破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ、興正寺トナツケタマヘリ(算頭録)

了源上人は、親鸞聖人は配所である越後から京都に戻り、そこで建てたのが興正寺であると明言しています。実際に興正寺を開いたのは了源上人自身であり、その上人が興正寺は親鸞聖人が開いた寺だというのは奇異な感じがしますが、おそらく、上人には興正寺は親鸞聖人の古跡を復興したものなのだという意識があり、そこからこうした表現がとられたものと思います。

ここで了源上人は興正寺の建立と親鸞聖人の一旦帰洛の説を結びつけ、興正寺は親鸞聖人が開いた寺だとの主張をしていますが、しかし、これははじめから結びついていたものではなく、一旦帰洛の説は、元来、別の伝承として語られていたものとみられます。実際、一旦帰洛の説には、興正寺の建立とは結びつかない別の所伝もありました。

佛光寺本山に蔵される親鸞伝絵は室町時代前期の製作といわれ、興正寺と佛光寺が分立する以前に成ったものとみられますが、そこに聖人が一旦京都に戻ったことが記されています。しかし、佛光寺の伝絵には一旦帰洛した聖人が興正寺を建立したということは、一切、言及されていません。逆に一旦帰洛の説は、聖人が京都に戻った後、関東へ向う道中で伊勢神宮に参宮したという別の説話として記されています。聖人が伊勢神宮に参宮したという伝承は室町時代の高田派の著述などにもみられ、これも古くからの伝承なのですが、ともかく、一旦帰洛説が別の説話に取り込まれているということは、元来、一旦帰洛の説が興正寺の建立とは関わりなく、別の伝承として語られていたことを示しています。おそらく、了源上人が属した荒木門徒のなかで伝えられていたもので、興正寺が建立される以前からすでにあった伝承なのでしょう。その伝承に了源上人が興正寺の建立を結びつけたということになります。了源上人以来、一旦帰洛の説は、興正寺は親鸞聖人が開いた寺だとする主張の根拠の一つとされますが、元来は別にあった伝承としなければなりません。

では、そもそもなぜ了源上人は、興正寺を親鸞聖人が開いた寺だと主張するのか、次にはそれが検討されなければなりません。

(熊野恒陽 記)