「興正寺の伝承 そのニ」

~親鸞聖人興正寺開基説の意義~

興正寺を親鸞聖人が建立した寺だとするのは、興正寺を開いた了源上人自らが主張するものであり、いうなれば興正寺の草創のころからいわれつづけた主張ということになります。

親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ、帰洛マシ〱テ、
破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ、興正寺トナツケタマヘリ(算頭録)

了源上人は、親鸞聖人が越後から一旦帰洛して建立したのが興正寺だといっています。

了源上人の主張については、古くからそれが事実なのか否かが論じられ、興正寺は親鸞聖人が建立した寺だとする興正寺の主張に対し、興正寺の主張を認めずにそれを否定するというふうに、とかくその当否のみが問題とされてきました。もとより現在では、親鸞聖人が興正寺を開いたということを事実として認めることはできませんが、問題とされるべきは、それが事実か否かということではなく、なぜ了源上人がそうした主張をするのかということであって、そう主張することの意味が論じられなければなりません。

了源上人の興正寺は親鸞聖人が開いた寺だとの主張は、興正寺が親鸞聖人とかかわる由緒をもつということを述べるものであり、それも越後への流罪赦免後の聖人が興正寺を建立したとすることで、真宗のなか最初に開かれた寺が興正寺なのだということをうったえたものと解されます。いわば興正寺が格別の由緒をもつ寺だと主張しているのですが、こうした主張が出てきた背景には興正寺の本寺化の進展ということがあったと考えられます。真宗の最初の寺だとは、真宗の本寺だといっていることにほかなりません。

了源上人が興正寺を真宗の本寺と位置づけようとしていたことは、それを非難した本願寺の覚如上人の言辞からうかがうことができます。

覚如上人に対し諸国の門弟が誓ったとされる文書では、了源上人の渋谷の寺に出入りすることを禁じるとともに、「遠国御直弟、京都之外御本号(寺)無之事」との一条が書かれています(二十四輩名位)。いわれているのは大谷の本願寺以外に本寺はないということで、これは了源上人に対するさまざまな非難を並べるなか述べられており、ここから逆に了源上人が興正寺を本寺だと主張していたことがうかがわれます。本願寺以外に本寺はないとの言辞は、同じく覚如上人の『改邪鈔』にもみえています。

至極(しごく)末弟(まってい)の建立の草堂を称して本所(ほんじょ)とし、
諸国こぞりて崇敬(そうきょう)の聖人の御本廟本願寺をば参詣すべからずと諸人に障碍(しょうげ)せしむる、冥加なきくはだての事

諸国の門弟がこぞって崇敬する本願寺をさしおいて、きわめて末弟のものが建立した草堂を本所と称しているということを批判しています。「至極末弟」とは了源上人を指すようですが、了源上人を至極末弟と貶することで、本寺としての本願寺の優位性をうったえたものといえます。

了源上人が興正寺を親鸞聖人が開いた寺だと述べるのも興正寺の優位性をうったえるためであり、聖人が建立したということを根拠に本寺との主張がなされたものとみられます。

上人が興正寺を親鸞聖人が建立した寺だと主張しだすのは、興正寺が発展をみせ、まさに興正寺の本寺化が進んでいた時期のことであり、親鸞聖人が興正寺を開いたとの主張が興正寺の本寺化ということと結びついていることは疑いありません。了源上人が覚如上人との縁を断つのも、ちょうどそのころで、双方が本寺を称する以上、袂を分かつのもまた必然のことでした。

親鸞聖人が興正寺を開いたとする了源上人の主張は、やがて伝承となって興正寺に伝えられていきますが、この伝承が伝えられた意義は大きく、のちの時代の興正寺の動向を決定づけたのもこの伝承でした。江戸時代、興正寺は西本願寺との本末論争を繰り返し、独立運動を進めますが、その際、興正寺の独立の論拠とされたのがこの伝承です。興正寺は親鸞聖人が建てた最初の寺であり、本願寺より先にあった興正寺が西本願寺の末寺であるはずはない、というのが興正寺の主張でした。いわばこの伝承が興正寺の独立を進め、この伝承が独立へと人を動かしたのでした。

了源上人が興正寺は親鸞聖人が開いたと主張するにしても、何の根拠もなく、そう主張することはできません。上人は何を根拠にそういうのか、さらにそれをみる必要があります。

(熊野恒陽 記)