「興正寺の伝承 その三」

~親鸞聖人興正寺開基説の謎を解く~

親鸞聖人が興正寺を建立したという場合、その際の興正寺の草創の経緯については、おおむね二通りの説明がなされます。一つは、越後から一旦帰洛した聖人が山科に興正寺を設けたとするもので、興正寺は聖人によって創建されたものとします。もう一つは、越後から戻った聖人が京都五条(ごじょう)西洞院(にしのとういん)にあった住坊を山科に引き移して寺としたのが興正寺だとするもので、興正寺を聖人の住坊を再興したものとします(京都坊目誌など)。あるいは、この二つの合わさった説明もあり、聖人が山科に興正寺を創建し、のちに了源上人が興正寺と五条西洞院の住坊を合併させたのだともいわれます。興正寺の伝承によると、この五条西洞院の住坊というのは、九条兼実(くじょうかねざね)が聖人に譲ったものとされていて、もとは兼実の所有していた花園を住坊としたことから、花園院(けおんいん)と呼ばれたとされています。

五条西洞院に聖人の住坊のあったことは事実で、『御伝鈔』にも聖人は関東での教化をおえ京都に戻ると五条西洞院に居を占めたと記されています。もとよりその住坊は聖人の帰洛後の住坊であり、それ以前から聖人が所有していたとは考えられません。この住坊はのちに火災に罹り、聖人は晩年になってここを離れます。

関東から戻ったのちの聖人が五条西洞院に住したのであれば、越後から一旦帰洛した聖人が五条西洞院の住坊を山科に引き移して寺としたとの説は、伝承とはいえ、矛盾した伝承ということになります。伝承としては、山科に興正寺を設け、のち了源上人が五条西洞院の住坊を合併させたというのが、幾分、理にかなっており、おそらくこれが古い形態で、それが分れて二通りの説明がなされるようになったものとみられます。

このうち聖人が山科に興正寺を設けたというのは、了源上人が山科に興正寺を開いたという事実を踏まえていっているものですが、問題なのは五条西洞院の住坊との関係をいうことで、伝承としても、この五条西洞院の住坊との関わりをいうのが、より原初的な形態だったと考えられます。複雑なことをいわず、単に興正寺は聖人の五条西洞院の住坊を引き継ぐものだというのが、もともとのかたちだったのでしょう。

この五条西洞院の住坊と興正寺を関係づける説は、かなり古くからいわれていた形跡があります。滋賀県日野町にある興敬寺(こうきょうじ)と正崇寺(しょうそうじ)という寺は、いまは二つに分れていますが、もとは一つの寺であり、寺号を興正(性)寺といいました。この興正寺について、興敬寺の寺伝では、開基は五条西洞院に住し、親鸞聖人より興正寺の寺号を下されたといっており、はじめは寺も京都にあったのだといっています。日野の興正寺は荒木門徒の流れをくむ寺で、この寺伝が興正寺本山の伝承から派生したものであることは明白ですが、すでに明徳二年(1391)の年付をもつ文書にこの寺伝が記されています(興敬寺文書)。

了源上人が興正寺は親鸞聖人が開いたといっていることを考えれば、この五条西洞院の住坊と興正寺との関わりをいうのは、了源上人がいい出したものとみてよく、上人は興正寺を五条西洞院の住坊を引き継ぐものと位置づけることで、興正寺を親鸞聖人が開いた寺だといったものと考えられます。親鸞聖人の住坊である五条西洞院の住坊の古跡を復興したのが興正寺なのだというのが了源上人の考えなのでしょう。

元来、上人の属した荒木門徒は五条西洞院の住坊に対する独特の見方をもっていて、上人が五条西洞院の住坊に着目するのも、その影響とみられます。親鸞聖人が法然上人の門下時代、九条兼実の娘である玉日(たまひ)と結婚したという玉日伝説は、この荒木門徒が伝えたものですが、玉日伝説のなかでは、聖人と玉日は五条西洞院に住んでいたことになっています(親鸞聖人御因縁)。興正寺の伝承が九条兼実の花園を住坊としたといっているのもこの伝説にもとづいています。ここで特徴的なのは、荒木門徒では五条西洞院の住坊が聖人の法然上人門下時代から一貫して存在していたと考えられていたことで、荒木門徒独特の見方といえます。

この見方から親鸞聖人の一旦帰洛説をとらえると、聖人が越後から帰洛したのであれば、それは五条西洞院に帰ったと考えられたということになります。興正寺と一旦帰洛説は五条西洞院の住坊を介在させると結びついているのであって、了源上人もここから興正寺の建立と親鸞聖人の一旦帰洛説を関係づけて主張したのだと思います。上人が一旦帰洛説と興正寺の建立を結びつけたのは、決して理由もなく結びつけたわけではなかったのです。

(熊野恒陽 記)