「興正寺の伝承 その四」

~伝承の内容の変化と興正寺への批判~

親鸞聖人が興正寺を開いたという伝承は、聖人の五条(ごじょう)西洞院(にしのとういん)の住坊との関わりをいうのが原初的な形態で、聖人が山科に興正寺を開いたとするのは、伝承としてはその後に派生したものとみられますが、時代とともに五条西洞院の住坊との関わりはいわれなくなり、単に聖人が山科に興正寺を開いたということのみが説かれるようになっていきます。現在、興正寺本山で説いている興正寺の沿革にしても、流罪赦免後、越後から一旦帰洛した聖人が山科に建てたのが興正寺であるとして、聖人による山科での興正寺建立は説かれますが、五条西洞院の住坊との関わりについては触れられることはありません。

五条西洞院の住坊への言及は江戸時代を通じ次第に減少していく傾向にありましたが、これに決定的な影響を与えたのが、享保二年(1717)の高田派の五天(ごてん)良空(りょうくう)による『高田開山親鸞聖人正統伝(たかだかいさんしんらんしょうにんせいとうでん)』の版行でした。『正統伝』は高田派を正統とする立場から著された聖人の伝記ですが、伝説や怪異談をも取りこんで総合的に聖人の一生を述べたもので、当時、大きな反響を呼んだ書物です。良空は興正寺の伝承も採りいれ、この『正統伝』には、聖人が流罪赦免後に越後から一旦帰洛し、山科に興正寺を建立したと明記されています。

興正寺ではこの記述に喜び、しきりにこの『正統伝』の説を援用しましたが、逆にこれによって興正寺の伝承そのものが『正統伝』の影響を受けてしまい、以後の興正寺の伝承はそのまま『正統伝』の内容に倣うようになってしまいます。興正寺では、興正寺という寺号は朝廷より与えられたものだといっていますが、これも『正統伝』の記述をそのまま踏襲したものです。『正統伝』は山科での興正寺草創は述べますが、五条西洞院の住坊と興正寺との関わりを説くところはなく、この影響を受け、興正寺も五条西洞院の住坊との関係を重視することはなくなってしまいました。

『正統伝』が後世に及ぼした影響は、多大なものがあって、その後に著された聖人の伝記は、ほとんどが『正統伝』の内容を踏まえて書かれるようになります。興正寺を親鸞聖人が開いた寺だとする説が、ひろく知られるようになったのはこの書によるものといっても過言ではありません。

『正統伝』が一旦帰洛説と興正寺の建立を採りあげたのは、直接には『親鸞聖人正明伝(しんらんしょうにんしょうみょうでん)』という本にもとづくもので、聖人の一旦帰洛説と興正寺の建立のことは、『正統伝』に先立って、この『正明伝』に述べられています。『正明伝』に特徴的なのは、聖人が一旦帰洛したのは建暦二年(1212)の八月の中頃だと、具体的な時期を記すことで、興正寺の建立についてもそれを同年の九月のこととし、翌十月に聖人は関東におもむいたとしています。これが『正統伝』になるとさらに詳細になり、聖人は八月十九日に京都に入り、九月に興正寺を建立し、十月二日に関東におもむいたと記されます。伝承というものが、次第に具体的に語られるようになっていく様子をうかがうことができます。

『正統伝』の版行は大きな反響を呼びましたが、この書が高田派の正統性を説くあまり、本願寺の所伝を罵倒するかのように批判したため、本願寺からは反感を買い、反対に『正統伝』の所説に対する批判も述べられるようになります。そのなかには親鸞聖人が興正寺を開いたという説への批判もあって、もし聖人が興正寺を建立したのであれば、関東の教化をおえ京都に戻った聖人は興正寺に住むはずなのに興正寺に住んでいた形跡は全くないではないかとか、聖人は真仏上人に興正寺をゆずったといっているが、興正寺が建立されたという年には真仏上人は僅かに四歳ではないか、との疑問が呈されています。疑問としては当然の疑問で、興正寺の伝承に対する痛烈な批判となっています。

あくまで親鸞聖人の在世中に興正寺があったとし、それを実体視するあまり、その相承にしても真仏上人以下の歴代が実際に興正寺を相承していったとするのですから、興正寺の伝承に史実との矛盾が生じるのは必然のことで、実のところこうした矛盾は伝承の随所にみられます。伝承のもつそうした矛盾にも多くの批判が集まっていますが、それにもかかわらず、この伝承が興正寺に語りつがれたのは、伝承のもととなった興正寺は親鸞聖人が開いた寺だとの了源上人の主張以来、この伝承が興正寺の優位性を支えるものであったからであり、多少の内容の変化があるにしても、興正寺にとっては、何にましても、語りつがねばならない伝承だったのです。

(熊野恒陽 記)