「名帳」

~名帳とはどのようなものか~

了源上人の興正寺は親鸞聖人が開いた寺だとの主張は、興正寺を真宗の本寺とする意図のもとになされた主張といえますが、興正寺が明確に本寺としての位置をしめるのは、了源上人が本願寺の覚如上人との縁を断ち、寺号を佛光寺と改めてからのことで、本寺としての体裁は興正寺が佛光寺となった以後にととのえられることになります。

了源上人は門末の組織化と、教線の拡大をはかることで本寺としての佛光寺の地歩をかためていきましたが、その過程で用いられるようになったのが名帳(みょうちょう)と絵系図(えけいず)で、佛光寺に特徴的なものとして、その名称はよく知られています。名帳と絵系図は佛光寺の代名詞のようにもいわれ、一般には佛光寺が発展したのは名帳と絵系図を用いた教化を行ったからだといわれています。確かに名帳と絵系図のために人びとが佛光寺に群がったと記す史料もありますが、もとより佛光寺の教化は名帳や絵系図につきるものではなく、佛光寺の発展の理由を名帳と絵系図のみに求めるは誤りであろうと思います。名帳と絵系図のために人が群がったというのも、名帳と絵系図だけを佛光寺の特徴ととらえ、それをことさらに強調したことから、そうした記述がなされたものと思います。

名帳と絵系図は併称されることが多く、一対のもののようにとらえられがちですが、成立したのは名帳の方が先で、絵系図の方は名帳よりも遅くに、名帳をもとに考案されたものという関係になります。名帳は残存例がまれで、当初、用いられたものなどはのこされておらず、わずかにのちの時代に写されたものだけが伝えられるにすぎません。それをみると、名帳は全体が二つの部分からなり、前半に名帳を作成した趣意をのべた序文が付され、その後に道場主とその門徒の名を列記した部分が続くという構成になっています。名帳をもとに作られた絵系図が系図の形式になっており、絵系図のなかでも名帳を「先年名字ヲシルシテ系図ヲサタム」と、系図と呼んでいることから、後半の門徒の名を列記した部分は、系図の形式で書かれるのが本来の形式だったようですが、それをのぞけば、当初の形態は踏まえられているとみられます。

名帳作成の趣意としてのべられるのは、血脈を伝え一宗の相伝をたてるため同心の行者の名を載せるということで、それを一仏浄土の縁とするとのべています。

高祖源空聖人ヨリコノカタ、
モハラ一流ノ血脈ヲツタヘテ一宗ノ相伝ヲタツルアイタ、
同心ノ行者ヲモテコノ名帳ニノスルトコロナリ…
名帳ニツラナルヲモテ一念発起ノハシメトシ…一仏浄土ノ縁トセン…

名帳については、名帳そのものより、むしろそれを批判した覚如上人の『改邪鈔』の記述の方がよく知られており、名帳に対する見方にしても、その記述のままに解するという傾向がみられます。『改邪鈔』は「名帳勧録(かんろく)の時分にあたり往生浄土の正業治定する」とのべ、名帳を名を記すことで往生が治定するものといっていますが、実際の名帳には、そのような趣旨をのべた部分は一切ありません。『改邪鈔』は佛光寺の主張をことごとく邪義と批判することで、本願寺のみを正当とすることを意図とした書ですから、そこでいわれる批判というものも、あえて事柄を強調してのべられた批判とみなくてはなりません。名帳についても、あえて邪義とするように書かれたものとみるべきしょう。

集団を形成する際に名前を書いて連帯を強めるというのは中世の一般的な慣習で、村の自治組織である宮座(みやざ)などでも、宮座に入る時には加入者の名を帳面に記して成員に加えるといった慣例がありました。名帳もこれに類したもので、教えを受けた者のいわば入信の証しとして名を記し、それを血脈の相承のしるしとするとともに、名を記すことで集団としての連帯の強化をはかったものとみられます。名帳という名称自体は一般にも使われた名称であり、平安時代に融通念仏(ゆうずうねんぶつ)をひろめた良忍(りょうにん)は結縁をつのるため名帳を用いたことが知られますし(融通念仏縁起)、浄土宗西山派の証空(しょうくう)の伝記にも「結衆(けっしゅう)の名帳」との表現がみえています(西山上人縁起)。ともに人の名を記した帳面を名帳と呼んでおり、人びとの結びつきを強めるものとして名帳が用いられています。

佛光寺の名帳にしても、そこに名を書くと往生が定まるというようなものではなく、同心の集団の結びつきを強め、組織化をすすめるために用いられたものとみるべきだと思います。

(熊野恒陽 記)