「絵系図 その二」

~これ恋慕のためか~

絵系図が論じられる場合には、大抵、絵系図は批判的に論じられ、真宗の教えにそぐわないものとしてあつかわれます。いわば異義としてとらえられているのですが、では一体、何がどう誤っているのかというと、これがはっきりと示されることはありません。一般の説明では、絵系図を姿が描かれることで往生が治定するものと説いて、そこから絵系図を批判していますが、こうした説明がなされるのであれば、まずは絵系図が本当にそのようなものであったのかが示されなければなりません。ところが、絵系図についてはそういった検討は一切なされずに、ただ批判だけがくり返されます。いうなれば、自分で絵系図を異義と決めつけておいて、それを勝手に批判しているのであって、正当な論じ方だということはできません。

絵系図への批判は覚如上人の『改邪鈔』にはじまるものですが、絵系図は多くこの『改邪鈔』を通じて解されることから、最初から絵系図は批判すべきものとしてとらえられるのでしょう。

絵系図に対する『改邪鈔』の批判は、道俗の男女の姿を描いて安置することを誤りだとするもので、それを祖師の教えに反するものと批判しています。

祖師聖人の御遺訓として、たとひ念仏修行の号ありといふとも、
道俗男女の形体(ぎょうたい)を面々各々図絵して所持せよといふ御おきて、
いまだきかざるところなり、
しかるにいま祖師先徳のおしへにあらざる自義(じぎ)をもて
諸人の形体を安置の条、これ渇仰のため歟、これ恋慕のためか、
不審なきにあらざるものなり

ここでは絵系図を姿が描かれたら往生が定まるものと批判しているわけではありませんが、同じ『改邪鈔』のなか名帳を批判する部分では、名帳を名を記すことで往生が治定するものといって批判していますから、言外にはそうした意味も込められているとみられます。

もとより、『改邪鈔』にこう書いてあるからといっても、それは覚如上人がそういっているというだけのことで、実際の絵系図がそうであったかは別の問題です。

『改邪鈔』は了源上人を非難するために書かれたもので、それも了源上人の主張をことごとく異義とすることで了源上人を難じるものですから、『改邪鈔』の記述をそのまま信じることはできません。

近年の研究で絵系図を作ったのが存覚上人であったことが明らかになっています。佛光寺本山所蔵の絵系図などにのこされている筆跡が存覚上人のものであることが判り、存覚上人が絵系図の作成に関わっていたことがはっきりとしました。存覚上人に姿を描けば往生が定まるなどといった安易な発想があったとは、到底、思われませんし、当然のことながら存覚上人がのこした著述を通じてもそのような考えはみられません。ここからしても、『改邪鈔』の記述は大げさな記述であり、絵系図を難じるためにことさらになされた記述だといえるでしょう。

覚如上人は絵系図について、姿を描くのは恋慕のためかといっていますが、端なくもこれは絵系図の一面をとらえています。絵系図は現存する人びとの血脈の関係を示すためのものですが、作成の意趣には、末の世までの形見をのこすため姿を描くのだとも明記されています。描かれた人びとが亡くなれば、絵系図にのこされた姿は生前の姿をしのぶ形見の遺影となるわけですが、絵系図が受けいれられたのも、多くはこの遺影としての側面が求められてのことだったとみられます。形見の遺影であれば、のこされた人は恋慕の思いで絵系図に向かうでしょうし、形見のため自分もまた絵系図に姿をとどめたいと思うのも自然な思いといえます。

絵系図が姿を描くことで往生が定まるというようなものではなく、多分に遺影としての側面が求められていたことは絵系図の変遷をみても明らかで、当初、絵系図は在世中に姿を描くものでしたが、次第に没後にその姿を描くというふうに変化していきます。往生が治定するのなら生前に描かれなければならないのに、没後に姿を描いているのは、最初から没後の遺影ということに関心があって、それが時代とともに顕然化したものと考えられます。

以後、絵系図は現代にいたるまで用いられていますが、それらはほぼ遺影として用いられています。故人をしのぶよすがとして用いられているわけで、まさに覚如上人のいった恋慕という思いが絵系図を支えつづけていたのです。

(熊野恒陽 記)