「継職後」

~証秀上人の妻は願行寺勝心の娘~

蓮秀上人が亡くなった後は、証秀上人が興正寺を継ぎます。蓮秀上人の葬礼をはじめ、蓮秀上人が亡くなった後の一連の行事は、後継者として、この証秀上人が主導して執り行われました。蓮秀上人が亡くなった時、証秀上人は十八歳です。

蓮秀上人が亡くなったのは天文二十一年(1552)七月十日のことです。その四箇月後の天文二十一年十一月、証秀上人の代となって最初の報恩講がつとめられました。興正寺の報恩講の勤行は、十一月十六日の逮夜から十一月十九日の日中まで行なわれます。蓮秀上人の代には、十一月十九日の日中の勤行に証如上人が出仕していました。

証如上人は、蓮秀上人の代の時と同様に、この天文二十一年の報恩講にも出仕しています。この時は、代替わり後の最初の報恩講ということで、証如上人の母である慶寿院がいろいろと気を遣っています。慶寿院は興正寺のため証如上人に進言もしています。

証如上人は十九日の朝に興正寺に来ることを例としましたが、天文二十一年も、朝、興正寺に来ています。

十九日の朝、証秀上人が証如上人を迎えに行き、証如上人は証秀上人とともに歩いて興正寺に来ました。本願寺の御堂衆や侍も同道しました。興正寺に到着後、証如上人には点心が供せられています。これには証秀上人と、端坊、東坊が相伴しました。その後、日中の勤行があり、証如上人が出仕しました。勤行後、証如上人は興正寺門徒衆と対面し、その後、斎を食しています。斎ののち証如上人は帰りました(『天文日記』)。

全体の流れは蓮秀上人の代のものと同じです。証如上人は次の年の興正寺の報恩講にも出仕するはずでしたが、次の年は体調を崩し、出仕はしませんでした。

興正寺の報恩講のあとは、本願寺の報恩講がつとめられます。本願寺の報恩講の勤行は十一月二十一日の逮夜から十一月二十八日の日中まで行なわれます。証秀上人も本願寺の報恩講には出仕しました。

興正寺と本願寺の報恩講が終わったのち、十二月三日となって証秀上人は結婚します。

夜、興正寺へヨメ入、シノビ也(『私心記』)

人目をしのんで、ひそやかに嫁入りしたとあります。この時、証秀上人と結婚したのは、大和国吉野郡下市の願行寺の住持である勝心の娘だとみられます。証秀上人の妻については詳しい伝えなどはありませんが、勝心には興正寺住持の一族と結婚した娘がいたことが知られます(『日野一流系図』)。勝心の娘が誰と結婚したのかは定かではありませんが、証秀上人が結婚した天文二十一年には、勝心は四十八歳です。年齢からみて、勝心の娘は証秀上人と結婚したものと思われます。

結婚から二箇月後の天文二十二年(1553)閏正月十八日、証秀上人は大坂から大和の吉野に下っています。吉野郡飯貝の本善寺の住持であった実孝の葬送に出仕するため下ったものです。実孝は、前年、本願寺の報恩講に出仕後に体調を崩し、大坂にとどまり養生していましたが、天文二十二年の正月二十六日、そのまま大坂で亡くなりました。その後、閏正月十八日となって吉野で葬送が行なわれたのです。

この実孝は証秀上人の妻とみられる勝心の娘の祖父にあたる人物です。勝心の妻が実孝の娘です。

実孝は蓮如上人の息男であり、その実孝が倒れたということで、本願寺では正月の恒例の行事を延期したりしていましたが、証秀上人の妻の嫁入りが隠密に行なわれたというのは、この実孝が倒れたということとも関係しているのだと思います。実孝の容態が悪かったこともあって、ひそかに嫁入りをしたのです。

吉野で行なわれた実孝の葬送では、願行寺の勝心と証秀上人は、他の一家衆とともに、実孝の遺骸を載せた輿を担っています(「実孝葬中陰記」)。

こののち、三月八日には証如上人が興正寺に来ています。証如上人に点心を振る舞うために証秀上人が招いたのです。証如上人に点心を振る舞うというのは、蓮秀上人の代から続けられている恒例の行事です。これは正月十三日に行なわれていた行事ですが、この年は実孝が伏しているために三月に延期されました。

この三月八日に行なわれたものが、証秀上人の代となって最初に行なわれた点心を振る舞う行事ということになりますが、行事の内容は蓮秀上人の代のものと同じで、特に変わったところはありませんでした。

報恩講や点心の振る舞いなどの主要な行事は、証秀上人の代となっても、蓮秀上人の代と変わらず、同じ形態で続けられていったのです。

(熊野恒陽 記)