「証如上人の死」

~朝廷とのつながり~

大坂の興正寺では、天文二十三年(1554)の七月、蓮秀上人の三回忌の法要がいとなまれています。蓮秀上人の忌日は七月十日であり、それに合わせ、八日、九日、十日と三日間の法要がいとなまれました。蓮秀上人が亡くなった後は証秀上人が興正寺を継ぎますが、証秀上人が興正寺を継いでから丸二年が過ぎたことになります。証秀上人はこの年で二十歳になります。すでに立派に住持の職をつとめられる年齢です。

三回忌に先立ち、証秀上人は、天文二十三年の二月十二日から、蓮如上人の子である実従から『教行信証』の伝授をうけています。伝授は一箇月ほど続きました。三月二十二日となって、証秀上人は伝授をうけ終わったことの礼のため、証如上人のもとを訪れています。

就本書拝読各有礼、光善寺実玄弐百疋…興正寺証秀五百疋(『天文日記』)

この時は、証秀上人のほかにも、本願寺の一家衆、本願寺の直参坊主が一緒に伝授をうけました。伝授は師となる僧が聖教の読み方や意味を教えるというものです。蓮如上人は『教行信証』は二十歳未満だと浅薄な理解しかできないので、二十歳以後に読むべきだと語ったと伝えられていますが、証秀上人はまさにその二十歳の時に『教行信証』の伝授をうけました。

天文二十三年七月十日、興正寺では蓮秀上人の三回忌の法要がいとなまれましたが、その一箇月後の八月十三日、本願寺の証如上人が亡くなります。三十九歳です。証如上人は十歳の時に本願寺を継いでおり、三十年にわたって本願寺の住持をつとめました。

証如上人が本願寺を継いだのは、本願寺が山科にあった時のことです。山科の本願寺は証如上人が十九歳の時、細川晴元との対立がもとで焼け落ち、その後、本願寺は大坂へと移ります。証如上人は一生の半分を山科で過ごし、半分を大坂で過ごしたことになります。証如上人の代の本願寺は、細川晴元との争いはあったものの、それを除けば、概ね平穏であったといえます。

本願寺は蓮如上人の代以来、公家や武家との関係を深めていきますが、公家や武家との関係はこの証如上人の代となって、一層、深いものとなっていきます。

公家との関係では、証如上人は九条尚経の猶子となっています。猶子とは擬制的な子のことです。猶子となることで擬制的な親子関係を結び、猶子の側は親の立場にある者から庇護をうけました。猶子は相続を目的とする養子とは違っていて、猶子となっても姓は変わりません。のち本願寺住持は、代々、九条家の猶子となりますが、本願寺住持で最初に九条家の猶子となったのはこの証如上人です。

証如上人と九条家の関係は親密で、尚経の子である九条稙通は、証如上人に四方膳や高麗縁といった、使用するためには特別に許可のいるものの使用を許可したり、本願寺と九条家の関わりを示す系図を作って証如上人に贈ったりしています。稙通が証如上人のために便宜をはかったことになりますが、その一方で、証如上人の側も稙通を助けています。稙通は経済的な困窮から関白の職を辞して京都を離れたことがありましたが、その際、稙通は証如上人を頼って、一時、大坂で過ごしていますし、この時以外にも、証如上人は稙通に金銭を贈って経済的な援助をしています。

九条家は摂政や関白となる摂関家の家柄であり、本来ならば本願寺を庇護する立場にありましたが、この時代には経済的にかなり疲弊していました。逆に裕福であったのが本願寺です。本願寺が九条家を経済的に助け、それに対し九条家が本願寺に権威を与えていくというのが、この時代の本願寺と九条家の関係です。

九条家とともに、証如上人と親密な関係にあったのは、青蓮院門跡です。証如上人の時代に青蓮院門跡であったのは後柏原天皇の第三子である尊鎮親王です。

天文九年(1540)、尊鎮親王は大坂の本願寺を訪れていますが、その際、尊鎮親王は証如上人に金襴の袈裟と紫衣を下賜しています。証如上人の母、慶寿院の慶寿院という院号も、この時に尊鎮親王から与えられたものです。後柏原天皇の第二子は後奈良天皇であり、尊鎮親王は後奈良天皇の弟にあたりますが、そうした関係から、本願寺は朝廷ともつながりができ、のち朝廷からも典籍などが本願寺に下賜されています。

証如上人は本願寺の住持では初めて朝廷から権僧正に任ぜられていますが、これも朝庭とのつながりから任ぜられたものです。証如上人の代には、本願寺は公家との関係を深めますが、それとともに本願寺の権威もまた高まっていったといえます。

(熊野恒陽 記)