「門跡」

~顕如上人は十七歳で門跡になった~

証如上人が亡くなった後は、顕如上人が本願寺の住持になります。顕如上人の代がはじまるにあたって、顕如上人は、天文二十三年(1554)十月五日、人びとに食事を振る舞っています。この時は証秀上人も食事を食しています。

朝、上様ヨリ飯サセラレ候、南殿ニテ女房衆法師衆各参候、
一家衆民部卿、恵光寺、超勝寺、興正寺マテ被参候(『私心記』)

食事を振る舞われた一家衆として、興正寺の名がみられます。本願寺の住持としての顕如上人と興正寺との関わりはここからはじまります。

翌年の天文二十四年(1555)正月二十二日には、顕如上人は興正寺を訪れています。証如上人は、毎年、正月十三日に興正寺を訪れ、点心の振る舞いをうけましたが、顕如上人もこの点心を振る舞うという行事のため興正寺を訪れたのです。顕如上人は実従、本宗寺実円とともに興正寺に来ました。

朝、興正寺ヘ御出候、予、土呂殿、御供申、御サキヘ参ル…
上様御輿也、上御前、汁五菜十三 御相伴、汁四菜六(『私心記』)

予とあるのは実従、土呂殿とあるのは本宗寺実円のことです。二人はともに本願寺住持の一族です。顕如上人には五汁十三菜、相伴した実従、実円には四汁六菜の点心が供せられたと述べられています。顕如上人は十二歳で本願寺を継いでおり、天文二十四年、興正寺を訪れた時には十三歳でした。

顕如上人は、その後、十五歳の時に結婚しています。相手は三条公頼(きんより)の娘です。この娘は細川晴元の養女として育てられており、かねてから顕如上人との結婚が約束されていました。結婚の約束がなされたのは、顕如上人が二歳、公頼の娘が一歳の時です。細川晴元はかつて本願寺と激しく戦った武将です。晴元と本願寺との和睦後、晴元側から申し出があり、結婚が決まりました。結婚の際には、この娘はさらに近江の六角義(よし)賢(かた)の猶子となった上で顕如上人に嫁いでいます。義賢の父、六角定頼もかつて本願寺と戦った武将です。

三条公頼の娘は顕如上人と結婚ののち、如春と名乗ります。顕如上人と如春尼の間には、顕如上人が十六歳の時、男子が生まれています。のちの教如上人です。教如上人は東本願寺を開いた人です。顕如上人と教如上人は親子といっても、さほど歳は離れていず、兄弟といってもいいような年齢差しかありません。

顕如上人の代の本願寺の力は強大なものとなっています。社会的な実力も増し、経済的にも繁栄していました。こうして本願寺の力が強大なものとなったことをうけて、朝廷は顕如上人を門跡に任じています。顕如上人が門跡となったのは、永禄二年(1559)十二月十五日のことです。顕如上人は十七歳でした。

門跡は皇族や摂関家などの一族が住持をつとめる寺のことです。住持その人もまた門跡といわれます。門跡寺院は特定の寺に限られていましたが、本願寺もそれに加えられたのです。門跡寺院には、普通、院家(いんげ)といわれる門跡寺院に付属する寺があるほか、門跡に仕える坊官(ぼうかん)といわれる役の者がおかれていました。そうした例にならって本願寺でも院家、坊官が定められました。院家には本願寺住持の一族の寺である、本徳寺、本宗寺、願証寺、顕証寺などの寺がなり、坊官には本願寺に仕えた下間家の一族の者がなりました。

顕如上人は門跡となる前の永禄二年十一月十九日、報恩講に出仕するため興正寺を訪れています。興正寺の報恩講は十一月十六日の逮夜から十九日の日中の勤行まで行なわれ、証如上人は、毎年、十九日の日中の勤行に出仕していました。顕如上人も証如上人と同じく十一月十九日の日中の勤行に出仕しているのです。

顕如上人の興正寺の報恩講への出仕は、顕如上人が門跡となった以後も続けられています。顕如上人が門跡となってはじめて行なわれた永禄三年(1560)の興正寺の報恩講でも、顕如上人は十一月十九日の日中の勤行に出仕しています。

朝、興正寺ヘ御出候云々、山田御供候、
賢勝、乗賢御供云々、富田同宮被参候(『私心記』)

山田は光教寺、富田は教行寺でともに本願寺住持の一族の寺です。賢勝、乗賢は御堂衆です。顕如上人はそれらの人びとを伴って興正寺を訪れたというのです。

興正寺と本願寺との関わり方には、顕如上人の代となっても大きな変化はなかったのであり、顕如上人が門跡となったあとにおいても、それまで通りの関わり方が続けられていったのです。

(熊野恒陽 記)