「光明本尊 その二」

~光明本尊と『弁述名体鈔』~

佛光寺派の寺院には現在も光明本尊を蔵する寺院が多く、佛光寺では伝統的に光明本尊が重んじられていたことがうかがわれます。この伝統は当初の了源上人にはじまることであり、光明本尊はまさに了源上人以来の佛光寺の象徴だということができます。のちのちまで佛光寺で光明本尊が重視されていたということを考えても、了源上人の光明本尊に対する思いにはかなり強いものがあったとみられますが、それを端的に示しているのが『弁述名体鈔』という著述の存在です。

『弁述名体鈔』は、光明本尊の解説書とでもいうべき本で、存覚上人によって著されたものですが、存覚上人は了源上人の依頼によりこの本を書いたことが知られています(浄典目録)。実際に書いたのが存覚上人であっても、了源上人の思いから生まれたといってよいでしょう。この『弁述名体鈔』は、光明本尊を論じた唯一の著述として、光明本尊を知る上では重要な著述となっています。

『弁述名体鈔』が光明本尊の解説書だとはいっても、光明本尊は親鸞聖人の在世中に成立したものであり、存覚上人が書いた『弁述名体鈔』とでは、成立した時期にいささかの隔たりがあります。もとより光明本尊の方が先に成立しているわけであり、したがって、その解説というものも、すでに成立してひろまっていた光明本尊に対し、存覚上人が注釈を加えたものということになります。

内容の特徴としては、光明本尊には中心に書かれる名号の違いによりいくつかの種類がありますが、『弁述名体鈔』は、そのなかでも九字名号を中心とする光明本尊の解説を行っているということが大きな特徴となっています。これは存覚上人の意向というよりも、撰述を依頼した了源上人の希望によって、そうなっているのだとみられます。存覚上人が『弁述名体鈔』を書くにあたっては、何よりも光明本尊の実物を参照する必要があったはずであり、当然ながら、その光明本尊は撰述を依頼した了源上人が用意したと考えられます。了源上人がもともと九字名号の光明本尊を用いていて、それを提示したことから、それを参照した『弁述名体鈔』もまた九字名号の光明本尊の解説となったということなのでしょう。その後に作られる佛光寺系の光明本尊も、おおむね九字名号の光明本尊ばかりで、これも了源上人にならったものとみられますが、加えて『弁述名体鈔』との整合性ということからも、九字名号の光明本尊が好まれたのだと思います。

『弁述名体鈔』は解説の順序ということにも特徴があり、はじめに光明本尊の発生の事情を説いたあとは、名号、阿弥陀如来像、釈迦如来像と、光明本尊の構図に対応するかたちで解説がすすめられています。最初に述べられる光明本尊の発生の事情は、光明本尊についての総説としてその発生を説いたもので、光明本尊はまちまちに分れていた本尊などを一幅のうちに納める意図のもとに、真宗の覚者によって考え出されたものだと述べられています。

高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるゝ本尊あまたあり、六字の名号、不可思議光如来、無碍光仏等なり…このほか、あるひは天竺、晨旦の高祖、あるひは吾朝血脈の先徳等、をのおの真影をあらはされたり。これによりて面々の本尊、一々の真影等を一鋪のうちに図絵して、これを光明本となづく。
けだしこれ当流の覚者のなかにたくみいだされたるところなり。

以下、三つの名号、二体の如来像、印度、中国、日本の先徳についての解説がつづき、名号に関してはそのはたらきや意義、先徳に関しては簡単な事績などが説明されていきますが、解説の順序としては光明本尊の構図と完全に合致しています。

『弁述名体鈔』がこうした構成を採っているのは、この本が光明本尊を前に読みあげられることを目的に作成されたものであるからで、絵を順を追って説明するため、こうした構成となっています。いうなれば拝読用の本だったわけですが、これについては、応永二十年(1413)ころ、法住(ほうじゅう)という人物が佛光寺に参詣し『弁述名体鈔』が読まれるのを聞いたとの記録ものこされています(本福寺跡書)。法住はそれを聞いて、ことのほか尊く思ったと記されていますが、してみると、光明本尊を前にした『弁述名体鈔』の拝読は、教化としても人をひきつけるものだったということができるでしょう。

(熊野恒陽 記)