「多念の声明」

~声、仏事をなす~

了源上人がのこした述作に、門弟の守るべき掟を一書にまとめた『算頭録(さんずろく)』という書があります。『算頭録』には了源上人の定めた規定が三か条にわたって記されていますが、そのうちの一条は声明についての注意を述べた規定となっています。これは具体的には親鸞聖人の御正忌の際の声明についての注意を述べたもので、正しい声明を習い、みだりに発声することがないよう定められています。

聖人ノ御正忌七日七夜ノ勤行ハ、
三部妙典ノ諷誦(ふうじゅ)、論釈ノ偈頌(げじゅ)妙句等
引声(いんじょう)墨譜ハ声明ノ達者ニツタヘヲウクヘシ、
ミタリニ引声スルコトナカレ…声明音律ニ協(かな)フトキハ、
影嚮ノ冥衆モ感応アルヘシ、シカアレハ報恩ノツトメトモナルヘシ

声明が音律にかなう時には報恩の勤めとなると述べられていますが、こうして特に声明についての規定が設けられていたところをみると、了源上人が声明に対し相当に深い配慮をはらっていたということがうかがわれます。上人には荒木門徒の影響が色濃くみられますから、声明を重んじることも荒木門徒の伝統と考えられますが、美しい声明のひびきには人を信仰にみちびくはたらきがあるものであり、上人はそうした面からも声明に注意を向けていたのだと思います。

元来、日本の浄土教は声明と結びついて発展したものであり、浄土教の盛行には、哀調をおびた念仏の声が情緒的に受けいれられため、浄土教がひろまったとの側面もありました。中世には声明にすぐれた僧を形容して能声(のうしょう)といいましたが、能声の僧の美声に感じいり、仏道に心をよせたとの話も多く伝えられています。これは法然上人の専修念仏の弘通にもいえることで、法然上人の教えは、教説として受けいれられたというより、むしろ声明化された念仏が好まれ、ひろまったといわれています。法然上人の門下は六時礼讃に哀歓にみちた曲をつけ念仏をひろめましたが、よほど甚だしいものがあったらしく、法然上人の門下は仏教を芸能に貶めたとの批判もみられたほどでした(元亨釈書)。

声明が浄土宗で盛んであったことからすると、了源上人の用いた声明も浄土宗の声明を取りいれたものと考えられますが、これについては、覚如上人の『改邪鈔』に参考となる記述がみえています。

一念多念の声明あひわかれて、いまにかたのごとく余燼をのこさる。
祖師聖人の御ときはさかりに多念声明の法灯倶阿弥陀仏の余流充満のころにて、
御坊中の禅襟(ぜんきん)達も少々これをもてあそびけり。
祖師の御意巧としては…いかようにふしはかせをさだむべしといふおほせなし

一念の声明と多念の声明が相分かれ、いまもその流派がある、親鸞聖人は念仏に節をつけることはなかったが、聖人の在世中は倶阿(空阿(くうあ))がはじめた多念の声明が盛んで、聖人の御坊にいた人たちもこれを習うことがあった、といっています。これは京都の人間がわざと坂東声の訛った声で念仏することを批判した編目のなかで述べられたもので、全体としては、節をつけた念仏を往生の真因と思うのは誤りであるし、生来の声をゆがめて念仏をするのも誤りだといったことが述べられています。ここで覚如上人は節をつけた念仏として、空阿の多念の声明を引き合いに出していますが、この多念の声明について、覚如上人はつづけて「東国より上洛の道俗等御坊中逗留のほどみゝにふれける歟」と述べ、親鸞聖人の関東の門弟が上洛した際に、聖人の御坊で多念の声明を聞き覚えたのではないかともいっています。多念の声明が関東へ伝わったといっているわけであり、換言するなら、関東の門弟は多念の声明を用いていたということになります。

多念の声明とは浄土宗の多念義の声明のことで、浄土宗には教学上の問題から一念義と多念義との二つの系統がありましたが、声明の方も二つに分かれていて、一念の声明と多念の声明とがありました。関東の門弟が浄土宗の声明を用いていたのであれば、関東出身の了源上人が用いたのも、やはり浄土宗の声明であり、それも多念の声明だったとみてよいように思います。覚如上人のいうように、空阿の多念の声明は一世を風靡した声明であり、念仏の間に和讃を誦するとの形式にしても、もとはこの空阿が創始したものといわれています(法然上人行状絵図)。特定の声明をもたない以上は、すでに確立している声明を借りて用いなければならないわけであり、その際に身近な関係にある浄土宗の声明を取りいれるということは十分にありうることだと思います。

(熊野恒陽 記)