「南朝伝説 その一」

~なぜ後醍醐天皇の伝説が語られるのか~

興正寺に伝わる伝説では、興正寺が佛光寺と名を改めたのは後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命によるもので、佛光寺との寺号も後醍醐天皇から賜ったものとされています。この伝説は佛光寺本山においても説かれるものですが、直接、寺号と関わる伝説であるだけに、佛光寺では、興正寺以上にこの伝説が重視されており、ことあるごとにこの伝説が強調されています。

佛光寺との寺号は、実際には存覚上人が名づけたものであって、佛光寺の寺号を後醍醐天皇から賜ったというのは、あくまで伝説に過ぎません。しかし、伝説だとはしても、この伝説には相当に深い意味があるように思われます。いわれ出したのもかなり古いようで、興正寺と佛光寺が分かれる以前にすでに成立していた伝説だと考えられます。

現在の興正寺には、後醍醐天皇との関わりを強調する伝統はありませんが、佛光寺には後醍醐天皇との関係を強調する伝統がのこされています。象徴的なのは後醍醐天皇の天牌(てんぱい)を安置していることで、佛光寺本山の阿弥陀堂にはいまも「後醍醐天皇尊儀」と書かれた天牌が安置され、忌日に合わせた法要も勤められています。このほかにも、佛光寺では後醍醐天皇との関わりを説くことが多く、たとえば、佛光寺に伝わる親鸞伝絵は、佛光寺では後醍醐天皇が宸筆(しんぴつ)をもって詞書(ことばがき)を書いたものとされていますし、佛光寺の伝えるところでは、了源上人は後醍醐天皇から一宗の棟梁との綸旨(りんじ)を与えられた、ともいわれます。

後醍醐天皇は了源上人と同時代の人であり、興正寺が佛光寺と名を改めたのも、ちょうど後醍醐天皇の治世期間にあたっています。伝説の対象として後醍醐天皇が選ばれているのは、時代的にみれば自然なことですが、佛光寺が後醍醐天皇との関わりを説くのは、それ以上の理由があってのことだと思います。

後醍醐天皇は、皇統を二分する、いわゆる南北朝の争いをひき起こした張本人で、自身は南朝の主上となり、北朝との抗争を繰りひろげましたが、最期は失意のうちに吉野の山中に崩じます。その後、南朝は次第に勢力を失っていくこともあって、南朝とつながりのある寺は総じて少なく、後醍醐天皇や南朝との関係を強調するような寺はあまり多くはありません。そうしたなかにあって、唯一、宗派として南朝との関わりがあったことがうかがえるのが時宗です。

時宗が南朝と関係するといっても、そのつながりは南朝が衰えてから結ばれたもので、直接には、南朝の皇子が時宗に入り、第十二代の遊行上人(ゆぎょうしょうにん)となったことに始まります。以後、時宗と南朝の関係は深まっていき、南朝の敗残兵で時衆となるものも多かったといわれています。時宗と南朝との関係はいろいろな事柄からうかがうことができますが、もっともよく両者の関係を示しているのが時宗の用いていた時衆過去帳(じしゅうかこちょう)の記載です。時衆過去帳は時衆となった人物の名を記したものですが、そこには後醍醐天皇をはじめ南朝方の死者の名も記されています。もとよりそれらの名は時宗と南朝とのつながりが出来てから、時代をさかのぼって書き入れられたものであり、名が記されているからといって、載せられた人物が時衆となっていたというわけではありません。後醍醐天皇の名が記されたのも、後醍醐天皇が崩じてから六十年後のことです。

時宗があえて後醍醐天皇をはじめとする南朝方の人物の名を過去帳に加えたのは、その人物の菩提を弔うためで、そこには不遇のうちに没していった南朝の死者たちへの鎮魂の意が込められています。当時の考え方では、怨みを含んで死んだものや、非業の死をとげたものは、霊となって災禍をもたらすとされており、ことさら鎮魂につとめなければならないとされていました。後醍醐天皇や南朝の死者などは、その最たるものであり、とくに鎮魂が求められました。時宗の行為は率先してその鎮魂を行なったものといえます。

後醍醐天皇や南朝の人物が鎮魂の対象とされていたことからすると、佛光寺で後醍醐天皇との関係が強調されるのも、後醍醐天皇の追弔をしていたことのなごりであり、もとは佛光寺でも後醍醐天皇の追弔が行なわれていたものと考えられます。それが変化し、後醍醐天皇との関わりを強調する伝説となったということなのでしょう。佛光寺で後醍醐天皇の追弔が行なわれていたことは、末寺の寺伝からもうかがうことができます。後醍醐天皇との関わりを示す末寺の寺伝とはどのようなものなのか、次いでそれをみていかなくてはなりません。

(熊野恒陽 記)