「中興了源上人略伝」

~佛光寺が用いる了源上人の伝記~

著名な僧侶が亡くなると、その遺徳を偲ぶため、一期の行状を記した伝記が著されます。親鸞聖人の場合には、いわゆる御伝鈔が著され、聖人の一生が跡づけられていますし、法然上人の場合にも、各種の法然伝が著され、その行状が顕彰されています。このほかにも高僧の伝記は数多くのこされていますが、こうした伝記には、描かれる僧侶の偉大さを強調するあまり、小さな事柄をことさらに誇張して述べたり、常識では考えられない奇跡に類した出来事が述べられたりします。ことに、没後、かなりの時間が経過してから著された伝記にそうした傾向が強く、一生の行状よりも、むしろ奇跡譚の方に力点を置いた伝記が著されることもあります。時代が経つに従い、描かれる僧侶の神格化が進むことと、正確な行状が判らなくなることにより、こうしたことが起こります。

了源上人にも『中興了源上人略伝』と題される伝記があり、上人の事績を知る上で基本的な述作として扱われていますが、この伝記にしても、そういった傾向があるといわなくてはなりません。

この『中興了源上人略伝』は、了源上人の子息である唯了上人(ゆいりょうしょうにん)が著したとされる伝記で、簡略なものながら、了源上人の一生が跡づけられています。唯了上人とは、興正寺でいう源讃上人(げんさんしょうにん)のことで、興正寺では源讃を法名、唯了を諱(いみな)だとして源讃上人といっていますが、佛光寺では唯了を法名、源讃を諱だとして唯了上人といっています。唯了上人がこの伝記を書いたといわれるのも、理由のあることで、この述作の奥書には、了源上人の五十回忌にあたり起草した旨のことが、唯了との署名とともに書かれています。

至徳二年正月八日先師上人了源之五十回忌ヲ向ヘテ聊カ禿筆ヲ染テ記シオハンヌ 
佛光寺第十世 釈唯了六十四歳謹書

実際、至徳二年(1385)は、了源上人の五十回忌にあたっており、唯了上人の年齢も、同年、六十四歳となります。このことから、この伝記を唯了上人の著作と信じる人は多く、とくに佛光寺では唯了上人が書いたことを自明の前提として、この述作を扱っています。しかし、書かれた内容を読むと、この伝記が了源上人の没後、五十年目に著されたものとは、到底、考えられず、どうみても江戸時代の後半期に書かれたものとしか思われません。この述作には、至徳二年に書かれたという原本が伝えられているわけではなく、古い写本ものこされていません。あるのは寛政三年(1791)に佛光寺の第二十三世随応上人(ずいおうしょうにん)が書写したという本で、ここからいっても、この述作を古い時代の成立とみなすことはできないでしょう。成立したのも寛政のころとみてよいように思います。

夫了源上人ハ了海上人ノ三男ニテ、開山聖人ヨリ第七代ノ善知識ナリ、
此上人幼年ヨリ聡敏ニマシ〱テ、宗門謬解ノ徒、
亦他門疑謗ノ輩ヲ化導セムト欲シ給フニヨリ、
日夜怠リナク経論釈ヲ学ビ、遂ニ三部経ノ奥旨ニ通ジ、
七祖ノ玄意ニ達シ、明光上人ノ後ヲ継給フ

『中興了源上人略伝』は冒頭、了源上人を了海上人の三男だとして、幼少のころより聡明で、三部経の奥旨をきわめたといっています。了源上人と了海上人が親子であるはずはありませんが、血統相続が一般化した江戸時代の常識にもとづいて、親子と考えたのでしょう。唯了上人が作者であるならば、こうしたことは書かれないはずです。

佛光寺の随応上人が書写していることに示されるように、この『中興了源上人略伝』は佛光寺において用いられた了源上人の伝記というべきもので、興正寺ではあまりこの伝記に注目することはありませんでした。江戸時代に興正寺で書かれた興正寺の由緒書をみても、『中興了源上人略伝』の記述が引かれることはほとんどありません。江戸時代には、佛光寺以外にこの伝記はさほど知られていなかったということなのでしょう。

もっとも『中興了源上人略伝』は、興味深い伝承も伝えており、上人が夢で石山寺の観音と対面したなど、興正寺には伝えられていない伝承も載せられています。夢のなか、石山の観音は白髪の翁となり、上人に対し

於今十劫六八願 和光垂迹濁悪世 契機契経他力法 一称即得無上覚

と、唱えたのだといいます。これは興正寺では語られることのない伝承ですが、佛光寺では重視されている伝承で、佛光寺派では、この文に譜を付して、伽陀として用いています。

(熊野恒陽 記)